旅夜話

とある好奇心の航跡

旅先で体験した人種差別的表現と、昨年末ガキ使のブラックフェイス

けっこう前の話になりますね。昨年末のガキ使です。

浜ちゃんがエディ・マーフィーに扮して顔を黒塗りにしたことがだいぶ問題になって、ネットニュースなんかでも取り上げられてました。
僕はリアルタイムでは見ていませんでしたが、それからしばらくこの件に関連した記事があがってるのを見かけました。
それだけ大きな話題性のある出来事だったんですね。
海外で問題視されてニュースに取り上げられたことや、日本国内在住の黒人の方から抗議の声が挙がったことが、これだけ皆が興味を持ち、話題にするきっかけとなった、大きな理由の一つだろうと思います。
あれから時間はだいぶ経ちましたけど、今日はこの件について自分が思ったことを書こうと思います。
なんでかっていうと、まあ、自分も気になってたんですよね。
僕は海外をちょくちょく旅してきた人間で、その中で、人種差別的な考えやそれに基づいた発言に何度も遭遇してきました。
直接、そういう言葉を投げかけられたこともあります。
それらはなかなか強烈なインパクトを僕に与えましたし、その度に、僕は何かしら考えさせられることになりました。
そして、直接何か言われなかったとしても、旅の最中なら、異邦人である僕はどこか頭の片隅で、自分が人種差別される可能性を常に意識していました。
というわけで、人種差別云々で騒がれている事があると、つい気になってしまうのです。
そもそも浜ちゃんのブラックフェイスが人種差別に当たるかどうかを含めて、僕なりの考えを書いていきたいと思います。


まず、ガキ使の浜ちゃんのブラックフェイスのシーンは後から見たんですけど、これはちょっとマズいな…と思いながらも、僕は笑ってしまいました。

なんで笑ったのか。
自分の中でその理由は大きく2つあって、一つは他の皆が普通に保安官の格好で登場する中、浜ちゃんだけがエディ・マーフィーで登場し、何で俺だけ?という、一人だけはめられてる感があったことです。
他との演者の境遇とのギャップに面白さがあったということですね。
もう一つは、そのメイク自体が面白かった、というものです。
今回問題視されたのは、このメイクですね。
思わず笑ってしまったからには素直に面白かったのは認めなければなりません。
じゃあ、そのメイクがなぜ面白かったのか。
まず、パッと見て面白いと思ったということは、その笑いはかなり反射的なものでしょう。
で、反射的に笑ってしまうほど、分かりやすく面白かったのは、単純に“変”だったんだと思います。
エディ・マーフィーの真似となってますけど、エディ・マーフィーには見えないですね。
真っ黒に塗った顔。
付け髭。
縮れ髪のかつら、等々…。
これらをもって、エディ・マーフィー風なんだろうし、そこに近付けようとしたのは分かるんだけど、やっぱりどう見てもそこにいるのは浜ちゃんだなぁ、という印象です。
でもここで、真っ黒な顔や縮れ髪が面白かったのかと考えてみると、そんなことはない。
街中で真っ黒な顔と縮れ髪を持った黒人を見ても思わず笑ったりはしません。
なぜって、変じゃないからですね。
変だったのは、浜ちゃんがああいう変装をさせられて、それが格好悪かったからです、だから面白かったんです。
それが最初の反射的な笑い。
そしてそこからさらに笑いを拡大した要素は、あれだけのメイクと変装をされながら、エディ・マーフィーにはたどり着かず、かと言って元の浜ちゃんの顔からも遠く離れ、行き場を失った浜ちゃんの、弄ばれてる感だと思います。
これは状態を理解するのに少しは時間が必要でしょうから、最初の反射的な笑いよりは、一瞬遅れて作用したような気がします。
そしてその状態の浜ちゃんの、あの哀れそうな表情がトドメとなり、さらに笑いを拡大しました。
とすると、さっきは僕自身、メイク自体が面白かったと書きましたし、何も考えてない状態であのシーンの何が面白かったのかと問われれば、あのメイクが面白かったと答えてしまいそうにもなりますが、ちょっと考えてみると実はそうではなかったんですね。
あのメイク自体を笑ったんではなく、あのメイクが目指したエディ・マーフィーの見た目を笑ったんでもなく、ましてや黒人の見た目を笑ったということでもなく、メイクと変装と、素材である浜ちゃんの化学反応としての見た目が面白くて笑ったということになります。
つまりこのシーンには、浜ちゃん一人だけが他の人と違う変装をさせられ、その変装が思い切り良く振り切れたもので、かつ変であれば、たとえその変装がエディ・マーフィーではなく宇宙人やイカだったとしても、同じように笑えるような構造があったということです。
しかし、番組を一貫して貫くテーマがアメリカンポリスだったために、その文脈でいくとエディ・マーフィーが登場するのが自然だったということでしょう。
このあたりは、僕以外にも多くの人がそう思ったところだと思います。
ネットの反応を見ると、黒人を笑ってるんじゃない、という意見が多かったですしね。
被害妄想だとか、欧米の価値感を押しつけるな、といった意見も同様に多かったと思います。
これは、黒人を差別や侮蔑する意図がないのに、勝手にそう解釈されたことへの不満を、多くの日本人が抱いたということの表れだと思います。

さて、僕がこのシーンで笑った気持ちの中に、黒人の見た目自体を笑う気持ちは無かった、というのはそうなんですが、しかしですね、僕の隣に黒人の人がいる状態でこのシーンを見て、同じように笑えるのか?
と自問してみると、それはないと思うんですよね。

であれば、僕にとってこれはすでに一つの結論と言えそうです。
僕はこのシーンで笑うことは、黒人へのリスペクトを欠いた行為であると自覚しているわけです。
しかし、僕自身が黒人の外見を変だと思ってないのに、しかも笑いをとる構造としても、黒人の身体的特徴自体を笑いものにするものではないのに、なぜこのシーンで笑うことは黒人に対して失礼だと思うのか。
それは多分、ある人種が他人種に変装すること自体が、すでに失礼だと思っているからです。

それはどういうことか。

いったんここで、あのシーンとは離れて、他人種に変装すること自体を考えてみます。
まず他人種に変装する際には、その人種の身体的特徴を誇張したようなメイクにする傾向があると思うんですね。
たとえ特別に誇張するつもりがなかったとしても、真似される側の人種の人からすれば、自分達の身体的特徴を持っていない人種が、自分達のそれを真似してそう見えるように加工しているわけですから、ことさらに誇張されてるように見えるはずだと思います。
それだけでなく、この人種ってこうだよな!という風に勝手に決めつけられているようにも感じるんではないでしょうか。
実は自分達に存在する、様々な外見上の差異などは無視されているばかりか、偏見や、こうあって欲しいという子供じみた願望までが投影されているように感じることもあると思います。
つまり大概において、自分たちの存在自体がナメられているような感じがするでしょう。
そして実際に、変装する側は変装するという時点で、そういう相手側の心情に対して無神経になっているところがあると思うんです。
その無神経さは、自分が他人種の変装をするところを想像してみるとよく分かります。
たとえば白人ってこんな感じだよな…なんつって、鼻がすごく高くなるように付け鼻をして、目をこれでもかと大きく見えるようにテープでも貼って固定して、カラコン入れて、髪を金髪にしてウェーブをかけて、肌を真っ白に塗って、はい、白人です!なんてやるとしましょう。
たぶんその見た目はすごく変ですし、気持ち悪くさえあります。
でも、面白いでしょう。
元の状態と変わりすぎ、やりすぎで、思わず笑ってしまうほど面白い。
でもやってる本人が、これ白人怒るよな?と思ってしまうほど、なんかバカにしてる感がハンパじゃない。
ていうことだと思うんです。
どの人種がどの人種の変装をするんであれ、する側は無神経だし、される側はムカつくのが大概ではないでしょうか。
いやいや、リスペクトして変装してる場合もあるよ、という反論もありますね。
そういうケースもあると思います。
ただこの場合でも、変装される側はいい気がしないかもしれないですね。
おれは日本人を尊敬している!と言って、白人が髪を真っ黒にして目をめっちゃ細くして、顔の堀を埋めてきたら、なんかムカつきますもんね。
尊敬してんのは分かったから、その顔やめろって言いたくなると思うんです。
というわけで、そのような変装すること自体がすでに、ほぼ必然的に失礼さを伴ってしまうと僕は思います。
相手を不快にさせないことは非常に難しい。
例え変装する側に悪意がなく、相手にそれが伝わったとしても、どう感情を処理していいのか難しい感じにはさせるはずです。

で、あのシーンに戻ると、制作側は黒人にではなく、エディ・マーフィーに浜ちゃんを変装させたかったわけですが、黒人であるエディ・マーフィーに扮するには、まず当然黒人の見た目を作らねばならなかった。
そこには、どうしたって他人種に変装する際の難しさがついてまわるのです。
どうしたって失礼さを醸してしまうのです。
そもそも浜ちゃんをエディ・マーフィーに似せようとしたって似るわけがない。
せいぜいが黒人の真似です。
日本人からすれば、それでまあまあエディ・マーフィーに似せているように思えても、黒人からすれば、そうは思えないでしょう。
ただ黒人の真似をしてふざけてるようにしか見えないわけです。
たとえば、白人が日本人の有名人の真似をして変装すると言ったって、まあ日本人の側からすればあまり期待はできませんよね。
せいぜいその白人がイメージするアジア人の顔作ってくるぐらいだろうなと思うわけです。
で、実際お目見えした時の顔が予想通りだったとしたら、やっぱり少しは腹立つと思うんですよ。
日本人の真似するならいつもそういう顔にすりゃいいと思ってるんだろ?日本人の顔の違い分かんねぇんだろ?ナメんなよ!?
くらいに思うかもしれませんよね。
つまりあのシーンを見た黒人はそう思ったかもしれないということです。
その際、あの番組内での文脈どうこうは、考慮に入れたくもないでしょうし、必要も感じないでしょう。
黒人からすれば、そういう問題じゃね~よ、ってことだと思うんです。
もちろんね、全員がそう思うわけではないと思いますよ。
でも自分が黒人の立場ならそう思うだろうなとは思いました。
ですから、あのシーンで笑うことはそういった変装をする側の無神経さと失礼さを共有し、肯定することなわけで、だから黒人がいるところでは笑えないなと思ったわけですね。
でも、結局一人でいたから笑ってしまったわけですが…。
おそらく僕と同じように、ちょっとマズいんじゃないかな…と思いつつ、でも笑ってしまったという人も多いんじゃないでしょうか。
一方で、全くマズいとは思わなかったという人も沢山いるかもしれませんね。

ここであのシーンを見た黒人、特に日本在住の黒人がどう思ったのか、もうちょっと想像を膨らませると、先にも述べたように、自分達の身体的特徴を侮蔑されたような気持ちや、黒人自体が軽く見られてるような気持ちはまずあっただろうと思うけれど、実はそれよりも、黒人がそう受け取る可能性を考えていない演出をする制作側のデリカシーの無さと、その演出を笑う人々の同じようなデリカシーの無さに、ガッカリする気持ちを抱いた人の方が多かったんではないかと思います。
そして日本社会があのような演出を許容しているような雰囲気を感じ、悲しさを覚えたんではないでしょうか。
いやそれどころか恐怖さえ感じた人もいるかもしれません。
本の学校に通っている黒人の血を引く少年少女、そしてその親御さん達など、日本社会の一員として日常を過ごしている人々なら、そこまで感じてもおかしくはないでしょう。
彼らは日本社会におけるマイノリティであって、大人でも周囲の目を気にするところはあるでしょうし、まして学校なんて、ちょっとしたことでからかいやイジメが起こる場所です。
黒人の血を引く子供さんはたまったもんじゃなかったかもしれないですよね。
黒人だけではありません。
同じように日本社会においてマイノリティに属する人種の方なら、あのようなシーンが年末の特番で平然と放送されることに対して警戒心を抱いたかもしれません。

その点、あのシーンを作った制作側の人間達はどのように考えていたのでしょうか。
これも憶測でしかありませんが、おそらく特に何も考えていなかったんだと思います。
国内にいる黒人が見たらどう思うか、ましてや海外ではどう受け取られるか、といったことは意識されていなかった。
そしてあのシーンを堂々と世の中に放った。
まさかあのような反応が各方面から出るとは思ってなかったはずです。
制作側には、黒人の身体的特徴を差別する意図は無かったし、それは視聴者もそのように受け取るだろうと思ったわけですね。
実際、多くの日本人の視聴者がそう受け取ったことでしょう。
だからこそ、番組放送後に起こった、あれは黒人差別だ!という反応に対して、いや違うだろ!という反応もたくさん起こったんだと思います。

ここでちょっと参考までに、僕がネットで見かけた、あのシーンに対しての肯定的な意見を以下に書いてみます。
曰く、白人の変装したって文句出ないじゃね~かよ!黒人はなんでダメなんだよ。
曰く、ジャッキーチェンの物真似したって中国人差別にはならないだろ?それと今回のとどう違うんだよ?
曰く、日本人は黒人を奴隷にしてこなかったし、差別する気持ちもない。だから欧米の感覚であのシーンを解釈しないでくれ。あれは日本ではOKなんだ。
曰く、あれを差別だと騒ぐやつらの方が差別してるんだ。黒人を下に見てるからあれが差別に見えるんだ。

もちろんこの他にもたくさんの投稿があったわけですけど、とりあえずこんなところが多くの意見を代表してるのかなと思いました。
そして僕の印象では、上記のものに表現されているように、大部分の意見に共通している感覚があるように思えました。
それは、黒人の真似をした変装することを特別なNG事項にしてるんじゃないのか?それはおかしくないか?他の変装と比べてどう特別に悪いんだ?悪くないだろ?
というものです。

皆引っかかるのはそこなんですよね。
他にもいろんな変装がテレビの中で行われている中で、黒人に扮する変装が特別に差別だ差別だと騒がれている印象があり、もしそれが事実なら、黒人に扮する変装が特別ダメだという明確な理由を示してみろってことだと思うんです。

そんな意見に対し、黒人に扮する変装がいかにやってはいけないことか、その理由の説明を試みた投稿もありました。
その代表的なものは、黒人と欧米社会との関係の歴史をその根拠とするものだと思います。
簡単にそれを説明すると、黒人が奴隷にされていたこと、そして欧米社会において長い間差別されていた中で、白人が黒人を揶揄し、黒人が屈辱的だと感じていた表現の中にブラックフェイスがあったこと、黒人の社会的地位の向上と人種間の平等意識の高まりと共に、そういった表現が行われなくなっていったという経緯が在ること、以上のことを考慮すれば、黒人に扮するブラックフェイスのような変装がいかに黒人に対して失礼で、心理的ダメージを与えるかが分かろうというものだし、もし日本社会がブラックフェイスのような表現を特に問題と思わずに今後も許容するなら、世界中にその無知をさらすことになる、というものです。

なるほど、この意見は説得力がありますね。

しかし次のように反論したくなる方もいるでしょう。

欧米の白人が黒人の奴隷化と差別という余計なことをしてくれたおかげで、俺たちの表現の自由が狭まってるっていうことだよな?俺らはそんなことしなかった。
白人達が自分達の過ちを反省し、その考え方を改め、ブラックフェイスのような表現をしなくなったことは良いことだよ。
白人のそれには悪意があったんだからな。
でもその線引きを、黒人の奴隷化をしたことのない日本人にまで押しつけようとしたり、日本人がそれを受け入れないことで非難してくるのは筋違いなんじゃないか?
俺らのブラックフェイスには悪意はないんだよ。
という風に。

実際このような意見はネット上で結構見かけました。
これにもなかなか説得力がありますね。
何かにつけて欧米は、上から目線で自分達の価値観を押しつけてくるような印象を持っている日本人も多いでしょうから、このような欧米に対する反発心を含んだ意見が出てくるのもよく分かるし、意見自体にも妥当性があるように思えます。
所変われば、タブー視されることもまた変わるのは当然ですからね。
欧米はその当然のことを分かってないんじゃないの?ってことですよね。

うん。気持ちはすごい分かりますね。
ただ、ここで僕の意見を挟みますけれど、一定の妥当性がこの意見にはあるとは思いつつも、だから黒人に扮する変装はOKなんだということにはならない、と思うんですね。
それは、このブラックフェイス問題においてまず重要視すべきなのは、日本と欧米の歴史の違いではなく、日本人の黒人に対する差別意識の有無でもなく、当の黒人がどう思うかだと思うからです。
でもそんなの分かった上で、先のような意見を主張をしているんだ、という人もいるでしょう。
つまりそういう人は、黒人がどう思うかが大事なのは当たり前で、もし黒人があれを差別だと感じてるなら、そうじゃないってことを説明してやればいいと思っているわけです。
そしておそらく、黒人は奴隷にされた過去や、欧米社会で差別されてきた過去がトラウマのようになっていて、ブラックフェイスみたいな変装を見るとすぐにその過去と関連付けてしまうのだろうけど、それはこの日本では行きすぎた被害者意識だし、勘違いですらある、と言いたいのでしょう。
そのような黒人の意識を変えてやるには日本人が黒人を差別してこなかったという歴史的背景と、日本人は差別意識を持ってないよ、ということを教えてやればいいし、それさえ分かってもらえたら、ブラックフェイスのような表現を今後もやっていいのだと思っているんじゃないかと思います。

もしそうだとしたら、実はこのような意見はタチの悪いものじゃないかな、と僕は思うんです。

まずこの意見は、自分達には悪気はないんだ、従って自分達は悪くないんだという主張に貫かれています。
なんなら悪者にされた自分達が被害者であると言いたげな雰囲気もありますよね。
まあ、気持ちは分かります。
ですが、相手に自分達の気持ちと歴史の理解を要求し、自分達の正当性を確保しようとする一方で、自分達が黒人の気持ちや歴史に対する配慮に欠けていることは一顧だにしていません。
相手が何に腹を立てたのか分かってないと思わせる意見ですね。
相手も悪気は無いのはおそらく分かってるんですよ。
黒人をバカにしようとする意図でないことは分かってる。
そうじゃなくて、あのような変装はまず失礼で、黒人にとっては特別ナイーブなことですらあって、なのに、ごく平然と、悪気無しにやられてしまった。
その無神経さ、配慮の無さに、黒人は怒ったり悲しんだと思うわけです。
もっと言えば、そういった配慮すらされない程にしか、日本社会で認められていないことにショックを受けたんだと思います。
なのに、この意見は自分達に悪気が無かったの一辺倒。
さらに、自分達の気持ちや歴史を知って欲しいと主張した上で、それを知ったのにまだブラックフェイスが受け入れられないのだとしたら、それは黒人の心のキャパが狭いからだ、というところまで匂わせています。
随分上から目線の、居丈高な意見ではありませんか。
これは自分達が強い立場や、守られた立場にあって、それを分かっているからこそ言える意見です。
この場合の強い立場というのは、自分達が国内における圧倒的マジョリティであること、守られた立場というのは、海外からの批判に対しては国内に引っ込んでいればどこ吹く風でいられる立場であるということです。
このような立場あっての無神経さというところに、すごくタチの悪さを感じてしまいます。

しかし、実はこれと同じようなタチの悪さを伴った問題というのは、日本人同士の間でも存在するし、僕たちの身近でもよく目撃されるものだと思います。
例えばイジるイジられるという関係があるところには、そういう問題が発生しがちではないでしょうか。
イジる側がイジられる側より立場上強くて、そのイジりでイジられた側が傷つくケース、よくあると思います。
たとえばその時、イジられた側が勇気を振り絞って抗議してみたところ、イジった側がこう言ったとします。

ごめんごめん。でも悪気はないんだし、これぐらいのイジりはアリでしょ?

これは傲慢じゃないですかね。
職場でやったらパワハラ、学校でこれを継続的にやればイジメになるかもしれません。
力が在る者や、立場が上の者が言う、悪気が無いイジりだったという言い分は、確かにその通りなんだと思います。
相手を見下しているか、軽く見ているか、少なくとも相手に対して配慮が足りてない状態でイジっていますから、
発言自体を軽く考えていますし、悪いなんて思ってないのも当然です。
ですから悪気が無いというのは、なんの言い訳にもなっていない。
むしろ、相手のことをなんとも思ってなかったんだよ、と表明しているようなもんです。
イジられて嫌だった側は、その無神経さに対して怒っているわけです。
もしコミュニケーションの一つとして、イジることがポジティブな形で成立するとするなら、イジる側とイジられる側の間に一定の信頼関係が必要なことは言うまでもありません。
それが無いのにイジるのは当然相手を傷つける危険がありますからね。
仲の良い友達同士の間でのイジりは、相手のどこまで踏み込んでいいのかも分かっているし、そもそもその関係だからイジられても不快じゃない。
赤の他人に、友人にされるのと同じイジり方をされたら、めっちゃムカつくかもしれません。

では今回のブラックフェイス問題はどうなのかと言うと、
真似て変装される側の黒人が基本的には嫌だと言ってる。
変装する側の日本人の中にはブラックフェイスは問題無しと思ってる人が大勢いる。
日本人と黒人の仲はどうなんでしょう。
お互いの外見を真似た変装が“あり”な程、仲がいいのか。
違うでしょうね。
黒人が嫌だって言ってるんだから。
黒人を侮蔑する表現として悪名高いブラックフェイスを、そうと知らずに平気でやっちゃってるくらいなんだから。
お互い、未だ遠い存在だということです。
そしてたぶん、将来日本人と黒人がすごく近しい存在になったとしても、ブラックフェイスは“あり”にはならないでしょう。
親しい仲にも礼儀あり、という言葉の示す通り、やっちゃダメなことがあり、ブラックフェイスはその範疇に含まれると思います。
だってたぶん嫌ですもん、自分がやられたら。
たとえ仲が良くてもね。

さて、ではここで、僕が旅先の海外でやられて嫌だった、人種イジり的な経験を挙げさせていただきます。

と言って、僕が今まで行ったことのある国は、主にアジアの国々とブラジルで、直接に人種イジリみたいなのを体験したのはブラジルのみ。
なので、海外と言っておきながら、実はブラジル限定の話です。
はい、ではまずブラジルでよくやられたのが、おまえらってチンコ小さいよな!っていうのと、目細いよな!っていうイジリです。
これはもう何度も何度も、数え切れないくらい言われましたね。
一年以上のブラジル滞在期間中、基本的にアジア人がいないエリアに一人でいたので、物珍しがられましたし、よく話しかけられましたが、そんな初対面のブラジル人に、かなりの確率でそういうイジりをされたわけです。
そうやって言ってくる時の顔も、かなりバカにしてましたね。
もちろん言われた方はいい気分はしません。
チンコが小さいってのは分かりやすいですが、目が細いっていうのも、多くのブラジル人にとってはバカにしたくなる特徴のようで、手で目の端をグーッとつり上げて、彼らのイメージする日本人の顔を真似しながら、おまえらこんなんだよな!って言ってきます。
これは男性だけじゃなく、女性にも言われます。
一度、友人の知人の、とある高齢白人女性の家におじゃました時のことです。
その女性は品のある、ビシっとした感じの人だったんですが、僕の顔を見るなりこう言ったのです。
日本人にしては目が大きいわね。
そういった彼女の顔は不満そうでした。
え、なんで不満?ダメなの?僕がそう思ったのは言うまでもありません。
まあ、彼女にしたら日本人にはめちゃめちゃ目が細くあって欲しかったのに、僕の目が思ったより大きかったのが面白くなかったんでしょう。
その不満を隠そうともしないところに、かなり僕を見下してるな、っていう印象を受けました。
いや、たぶん僕だけではなく、日本人だけでもなく、彼女が思う、目が細い人種全般を見下しているんでしょう。
話をしていて、中国人と日本人、韓国人あたりを一緒くたにとらえていることが分かりましたし、これらの国の人間は、見た目も同じで文化もほとんど同じだという風に思っているようでした。
ここでは、これらの国の人を東アジア人とでも呼びましょうかね。
この女性のように、東アジア人的な身体的特徴をバカにしていて、従って東アジア人自体を下に見ている人間に、ブラジルではさんざん出くわしまして、それこそ、小学生くらいの子供から高齢の人までの様々な年齢層に、一通りイジられ、バカにされたんじゃないかなと思います。
背が低いとか、頭がでかいとかね、スタイルに関して色々言われましたよ。
僕はまあまあ身長がある(178くらい)ので、ブラジルでも低いほうではないんですが、そんなの関係ないですね。
僕より背の低いブラジル人に、中国野郎は背が低いと言われたことが何度もあります。
背が低いどころか中国人でもないわけですが、それさえおかまいなしです。
で、そんな風に東アジア人の身体的特徴をイジってきた人たちはどういう人だったのかというと、ごく普通の人間、つまり特に悪いやつというわけでもなく、家族や友達の前では、普通に良い奴だったりするパターンが多かったような気がします。
どこの国に行ったって、性格が心底悪いような人間というは滅多に出くわすものではありませんで、大概、話せばまあまあ良い奴なんですよ。
しかし、そういう人間が、簡単に、軽い気持ちで人種的な特徴を嘲るのです。
で、言われた方はどう感じるかというと、かなり嫌な気分になります。
悲しい、ムカつく、残念、そんな感情がごく当たり前に沸き上がってきます。
僕に出来たのは、せいぜいそういったネガティブな感情に飲み込まれないようにすること、まともに相手にしないことくらいでした。
この、嘲る側が罪の意識も無くお手軽に、言われる側にかなりのダメージを与えるというところに、一番の不公平と問題がある気がします。
試しに東アジア人的身体的特徴をイジってきたブラジル人に、君らはアジア人を差別しているのかと訪ねれば、そんなことはない、とほとんどの人が答えるでしょう。
というか、実際聞いたことがあるけれど、聞いた人に関しては全員、そんなことは無い!と言っていました。
ちなみに、聞いたのは20代から30代の男性でした。
子供なんかは素直に思いっきり差別してきてましたからね。聞く間でもありません。
この差別をしていないと言った人達は、差別という言葉が出ると、一様に警戒の色を浮かべたものです。
彼らにとって、差別というのはとても悪い印象で、社会的にも許されることではないという認識を持っているようでした。
ではどういったものが彼らにとって差別に該当するのかというと、おそらくもっと攻撃的で、悪意を伴ったものなんだと思います。
彼らにしてみたら、ちょっと見下しているだけなのに、差別だなんてとんでもない、ということになるんでしょう。
自分が差別をしているということになれば、罪を犯していると言われているようなもので、善良な市民である自分が軽い気持ちで発した言動を、そんな風に言われたくないというわけです。
そう、罪の意識は無く、大して悪いことをしているとも思っていない。
一方、ちょっと見下された側の僕はどう感じたかと言えば、かなりショックだったというのは先ほど述べました。
言われた内容自体も相当嫌なものではありましたが、その発言が僕に与えるダメージを大きくしたのは、内容よりむしろ、その発言の背後にある彼らの心理や、その心理を促し、そして支えるところの実質的な力だったと思います。
即ち、彼らの差別的なイジりからはその内容以外に、お前の自尊心など無きに等しく、見た目からして変で、異端の文化に属し、自分達と比べて下位の存在なのだ、という心理が読みとれましたし、その心理は、圧倒的多数の彼ら現地人と異国の地でたった一人の異邦人である僕との間にある明らかな力の差、つまり僕を見下してイジろうが何を言おうが彼らが悪者にされることは無いという、その実質的な力の差を背景に彼らが驕り、無神経になった結果、彼らの中に生じることが可能になったものに思えたのです。
この実質的な力と、それを背景にした驕った心理こそが、彼らの東アジア人イジりをして、彼らが思っている以上に残酷なものにさせたのでした。


さて、こういった僕自身のブラジルでの体験から、僕が何を言いたいのかというと、ここに人種的マジョリティとマイノリティが存在すれば、マジョリティは驕りやすく、マイノリティに対して無神経になりがちで、悪気なく彼らを傷つけ、本人達が想像する以上のダメージを与えがちだということです。
今回のブラックフェイスの件で言えば、日本人と日本在住の黒人の間には相当な意識の開きがあると想像します。
あの変装が差別かどうかで言うと、その判断はどの人間がするのかによって大きく変わってしまうものなんでしょう。
ちなみに僕の意見では、あれは差別表現ということにして、今後やらないほうがいいと思っています。
が、差別か否かという議論は重要な部分から遠ざかったものにも思えます。
ある人種を真似た変装が、その人種を不快にさせ、傷付けたり、見下されてるような印象を与えるなら、差別に該当するか否かの不毛な議論の前に、まず止めたほうがいいと、僕は思います。
きっと日本人が海外に行き、同じことをされたら、想像以上にキツいと感じるに決まっていると思いますから。
その時、その行為が現地で差別とされてるかどうかなんてことより、ただ止めて欲しいはずですから。
僕が海外で、自らが人種的マイノリティになって感じたことを、本国の人種的マジョリティに役立てる形で還元できるとしたら、そういうことなんですね。
昨今、訪日外国人の数は増える一方ですし、日本で就労する外国人の数もどんどん増えています。
そんな中、日本人が外国人と接する機会は当然増えています。
そして、ずっと日本で過ごしてきた日本人の中に、外国人に対して偏見を持っている人は、まあけっこういると思います。
僕の周りにもいます。
というか、僕自身まだ、いろんな偏見を持っていて自覚していないだけかもしれません。
それらの偏見が、日本で増えてきている外国人を不用意に傷つけることが出てくるでしょう。
そういう経験を経ることでしか人は変わっていかないのかもしれませんが、なるべく傷つく外国人が少なくあるように、反感を買う日本人が少なくあるようにという願いを込めてこの文章を書いた部分があります。
長くなってしまいました。
今回はこのへんで。ではでは。