旅夜話

とある好奇心の航跡

サピエンス外伝  チベット編①

どでかい景色だった。
どこまでもどこまでも続く薄茶けた大地。
近くを見ればそこかしこで常に地面は隆起していたけれど
特別大きいという程のものは無くて、遠くまで見渡しての感想を言うならばこの地は概ね平らだった。
ただ、地平線で一回切れた大地の向こうにはヒマラヤ山脈が見えていて、雪を被って並び立つ世界の屋根は神々しく
、薄茶けた大地の連続とは一線を画していた。
とは言え今自分がいる場所、この大地の標高がすでに4500~5000メートル程あったから、そこから遙か遠くにあるヒマラヤ山脈は相当標高が高いであろうことは予感させつつも、目視する高さ的にはおとなしくなだらかな地平の一部に納まってしまっていたので、その姿をもってしてもこの単調な景色に強力な変化をもたらすというほどではなかったのである。

とんでもないところに来たな…。
そんなことを改めて思いながら僕は一人黙々と歩いていた。
苦しい…。一歩足を踏み出すことがもう大変だった。
この標高だと平地に比べて酸素濃度が大分低いのである。
海抜0メートルのところと比べたら50%~60%しかないらしい。そんな具体的な数字まではこの時は知らなかったけど、酸素濃度が低い影響は体感ではっきり分かった。
とにかく疲れ方が半端じゃなかった。ただ歩く、それだけのことなのに呼吸はゼーゼーととても荒く、一歩踏み出すごとに体力のゲージが目減りしていく気がした。
体が重い、それに加えて荷物が重い。25kgくらいは背負っていたと思う。もっと標高の低いところを歩くのでも自分にとっては嫌な重さだったから、ここではもう本当に投げ捨ててしまいたい程に重く感じた。
30メートルくらい歩いたらしばらく座りこんで休むということを繰り返しながら進んだ。
こんなゆっくりしたペースで果たしてちゃんと進めているのかと時々不安に思ったけれど、偉いもんでこれでけっこう進んでいるのだった。小さな砂山を幾つも通り過ぎて来たことが、振り返るとよく分かった。
着実に進んでいる、この力強い事実に励まされながら、次の一歩次の一歩と踏み出していた。

時刻は正午を回ろうとしていた。
太陽はほぼ真上にあった。
そこから放たれる光には、容赦がないという表現がピッタリだった。とにかく強烈なのだ。こんなにもまぶしく研ぎ澄まされた太陽光はこの地に来るまで見たことがなかった
。理由ははっきりしていた。大気の透明度だ。初めてと言えばこの地の空の青さも見たことがない類のものだった。
不純物の何も無い青。抜けるような青空とは正にこのことに違いない。この空を抜けてきた太陽光が下界で見るのとはまるで違うのも当然というものだった。
しかしこんなものだったのか…。太陽光を見る僕の中では惚れ惚れするような気持ちと恐ろしいような気持ちが入り混じっていた。まるで抜き身の日本刀を見ているような感じと言えば近いかもしれない。
ただ美しいとは言い難い、危険さを感じさせる、凄みのある、そんな美しさをこの地の太陽光は持っていた。

暑いな…。

これは予想外だった。何しろこの地は標高が高いのだ。
かなり寒いことを想定して相当の厚着をしてきていた。
ところが日中、強烈な直射日光の下でひたすら歩いていると暑いのだ。しかし時折砂塵を舞い上げて吹き付ける風はなかなか強烈で、上着を脱いでいいものかどうかちょっと迷った。が、結局2枚脱いだ。確かに風は体温を奪ったけれど、この時間帯なら危険な程ではなく火照った体に丁度良かった。

しかし、しかし、ほんと何も無いな…!
確かに土、岩、空、とこれ以上ないくらい単純な世界だ。
でも退屈していたかと言えばそうでもない。
土や砂岩の織りなす表情の変化を楽しむ程にはこの地に順応してきていた。
それでも無視できない感覚がずっとあって、それが感情の表面にぐーっと上がってきての、何も無い!だった。
この地を歩き始めてからずっとそこにあった感覚。
どうやら僕はあえてそれを見ないようにしてきたようだ。
でも今、なんだか大丈夫な気がして自己主張するそれを自由にさせていた。
その感覚の正体。それは言わば“乾き”だった。
何に対する乾きか。実は最初から分かっていたのだが、それは“親しみを感じられるもの”だった。
体なら水を欲して乾く。だけど心は親しみを感じられるものを求めて乾いた。
僕はこの地を一人で歩き始めたこの日の朝のことを思い出していた。西チベットの辺境の村を離れ、荒野に足を踏み入れた。人里は徐々に遠ざかり、やがて砂山の向こうに見えなくなり、視界にはただ土と砂岩があるだけになった。どこに目をやっても僕は何にも相手にされていなかったし僕を助けてくれそうなものは何も無かった。
僕に近しいものは何も無く、つまりは親しみを感じられるものが何も無かったのだ。
そんなことは今まであった試しがなかった。
僕は全く想像していなかった感触に衝撃を受けていたし、まさに今、過去に経験してきたいかなるものともかけはなれた現実のその最中にいて、これからずっとこの状態が続くということに対してヤバいと直感していた。
そしてさらにもう一つ衝撃を受けていることがあった。
それは自分がこんなにも親しみを感じられるものを探すのだということ、そのことを今の今まで自覚すらしていなかったということだった。
僕の心は視線を通して触手を伸ばしていた。
土に触れ、岩に触れ、そしてその度に触手はうなだれて帰ってきた。それを繰り返す中でようやく、自分が普通に期待していることに気づかされた。僕の心は無邪気にも親しみを込めて土や岩に触れていたのだ。親しみを返してくれることを期待しながら。しかし彼らは何も返してくれなかった。そんなことはとっくに、この地に来る前から分かっていてもよさそうなものものだった。もちろん頭では分かっていたんだと思う。でもほとんど無意識に僕の心はそんなことをしていたのだ。つまりそれはかなり習慣化されていた行いだった。
日本にいて普通に生活していれば、まず身の回りに自分の助けになるようなもの、親しみを感じられるものがあふれていた。だからそれらを意識して探そうとはしていなかった。でも心の触手は常にそういうもの達に触れ安心感を得ていたのに違いなかった。人やあらゆる人工物や他の生物達などに触れる度に心は少しずつ安心感を蓄えていたのだ
。そういう作業を無意識にずっとやっていたからこそ、それが習慣化されていたからこそ、この不毛の荒野にあっても心の触手は周囲のものに当然のように触れて回ったのだ。にべもない拒絶にあって初めて僕はそのことに気付いたのである。
でもその無邪気さこそが僕をしてこの荒野に向かわしめ、一人で歩くことを可能にしたものだとも言えた。
つまりこの無邪気さの根本には無知ゆえの楽観があったのだ。そうであるならしばらくそのままでいてくれなきゃ困る。僕はとっさにそんな風に判断したんだろう。
寂しさを抱いた心は何でもいいから親しみを感じられるものを求めて得られず、乾いた。
僕はそこに蓋をしたのだ。気にしないように、見ないようにするしかなかった。
だけどそれは常にそこにあった。その事実をここにきてようやく直視出来るようになっていた。けっこうこの荒野にも慣れてきたところで渇望を飼い慣らす自信もついてきたのだと思う。
かと言って親しみを感じられるものが何もないことには変わりなかったが。

相変わらず容赦なく照りつける日差し、乾ききった大地。
僕の体力はどんどん失われていったし、そのことを気遣うものは見渡す限りの世界で何一つ無かった。
そんな中で、ふいに僕は妙な感覚に捕らわれた。
自分自身のことが不思議に思えたのだ。
何だこれ、と思った。自分なのに。
僕は周囲のもの言わぬ者達と自分を見比べていたのだ。
一番目につく物体と言えば無数の砂岩だったが、彼らはどっしりと佇み、ただそこに在り、太陽光と風にさらされていた。彼らはいずれその形を崩し、砂と化すだろう。だがそうなるまでには悠久の時を必要とするに違いなかった。
ところがこの僕は何やら複雑な構造をした体を持って、服を着て(それも何枚も)大きな荷物を背負って、その重さでフラフラしながら必死に進んで、息をゼーゼーして、そんなやたらと騒々しい様子でありながら、その形を留めておけるのは砂岩と比べてはるかに短い時間でしかない、そんな存在だった。
これはとても変な事実じゃなかろうか。この自分はまるで道化のようだった。
見渡す限りのこの世界で他の何者よりも存在することに躍起になっているのに、下手をしたら他の何者よりも先に崩壊する存在なのだ。これが滑稽でなくてなんだろう。存在の仕方がそもそも間違っているんじゃないかと思えた。
少なくともこの奇妙な存在がこの世界に在る為には、しかるべき理由がなければおかしいだろう。
全てが崩壊に向かう世界で全力で崩壊に抗い、しかしほんのわずかな時間で消え去る存在である理由。
存在するだけなら、そこらの岩の在り方が正解だった。
存在するだけなら。
そう、そうだ、僕は存在しているだけじゃない。こうして考えている。僕は意識なんだ。この意識こそが僕が在る理由なんだ。この意識には価値があるじゃないか。こうして世界を認識してそのことを自覚している。そして、そして…。それで?それで何だろう。
この意識がこうして色々とものを考え世界を認識することが世界にとってなんだというのか。この意識は様々なことを感じたり考えたりするだろうが、結局のところ跡形もなく消え去るのだ。それもほんのわずかな時間で。
とすれば意識は僕の存在理由になってくれるどころか輪をかけて僕の存在を不思議にしているのかもしれなかった。
いや、でも…。この無味乾燥な世界で、この意識は何か特別で貴重な存在に思えて仕方なかった。
でも何でなのか?
僕は何も知らなかったし、これは愕然とする事実だった。
だが気付いていることもあった。
価値も意味も何かの文脈の中に発生するということだ。
どういう風に価値や意味があるのか、それを説明するには前後の文脈がどうしても必要だった。
僕の心はそんな文脈を求めて虚空をさまよい、答えを探した。
それはあるはずに思えた。
だがもちろん、世界は沈黙をもってそれに応えるのみだった。

旅先で体験した人種差別的表現と、昨年末ガキ使のブラックフェイス

けっこう前の話になりますね。昨年末のガキ使です。

浜ちゃんがエディ・マーフィーに扮して顔を黒塗りにしたことがだいぶ問題になって、ネットニュースなんかでも取り上げられてました。
僕はリアルタイムでは見ていませんでしたが、それからしばらくこの件に関連した記事があがってるのを見かけました。
それだけ大きな話題性のある出来事だったんですね。
海外で問題視されてニュースに取り上げられたことや、日本国内在住の黒人の方から抗議の声が挙がったことが、これだけ皆が興味を持ち、話題にするきっかけとなった、大きな理由の一つだろうと思います。
あれから時間はだいぶ経ちましたけど、今日はこの件について自分が思ったことを書こうと思います。
なんでかっていうと、まあ、自分も気になってたんですよね。
僕は海外をちょくちょく旅してきた人間で、その中で、人種差別的な考えやそれに基づいた発言に何度も遭遇してきました。
直接、そういう言葉を投げかけられたこともあります。
それらはなかなか強烈なインパクトを僕に与えましたし、その度に、僕は何かしら考えさせられることになりました。
そして、直接何か言われなかったとしても、旅の最中なら、異邦人である僕はどこか頭の片隅で、自分が人種差別される可能性を常に意識していました。
というわけで、人種差別云々で騒がれている事があると、つい気になってしまうのです。
そもそも浜ちゃんのブラックフェイスが人種差別に当たるかどうかを含めて、僕なりの考えを書いていきたいと思います。


まず、ガキ使の浜ちゃんのブラックフェイスのシーンは後から見たんですけど、これはちょっとマズいな…と思いながらも、僕は笑ってしまいました。

なんで笑ったのか。
自分の中でその理由は大きく2つあって、一つは他の皆が普通に保安官の格好で登場する中、浜ちゃんだけがエディ・マーフィーで登場し、何で俺だけ?という、一人だけはめられてる感があったことです。
他との演者の境遇とのギャップに面白さがあったということですね。
もう一つは、そのメイク自体が面白かった、というものです。
今回問題視されたのは、このメイクですね。
思わず笑ってしまったからには素直に面白かったのは認めなければなりません。
じゃあ、そのメイクがなぜ面白かったのか。
まず、パッと見て面白いと思ったということは、その笑いはかなり反射的なものでしょう。
で、反射的に笑ってしまうほど、分かりやすく面白かったのは、単純に“変”だったんだと思います。
エディ・マーフィーの真似となってますけど、エディ・マーフィーには見えないですね。
真っ黒に塗った顔。
付け髭。
縮れ髪のかつら、等々…。
これらをもって、エディ・マーフィー風なんだろうし、そこに近付けようとしたのは分かるんだけど、やっぱりどう見てもそこにいるのは浜ちゃんだなぁ、という印象です。
でもここで、真っ黒な顔や縮れ髪が面白かったのかと考えてみると、そんなことはない。
街中で真っ黒な顔と縮れ髪を持った黒人を見ても思わず笑ったりはしません。
なぜって、変じゃないからですね。
変だったのは、浜ちゃんがああいう変装をさせられて、それが格好悪かったからです、だから面白かったんです。
それが最初の反射的な笑い。
そしてそこからさらに笑いを拡大した要素は、あれだけのメイクと変装をされながら、エディ・マーフィーにはたどり着かず、かと言って元の浜ちゃんの顔からも遠く離れ、行き場を失った浜ちゃんの、弄ばれてる感だと思います。
これは状態を理解するのに少しは時間が必要でしょうから、最初の反射的な笑いよりは、一瞬遅れて作用したような気がします。
そしてその状態の浜ちゃんの、あの哀れそうな表情がトドメとなり、さらに笑いを拡大しました。
とすると、さっきは僕自身、メイク自体が面白かったと書きましたし、何も考えてない状態であのシーンの何が面白かったのかと問われれば、あのメイクが面白かったと答えてしまいそうにもなりますが、ちょっと考えてみると実はそうではなかったんですね。
あのメイク自体を笑ったんではなく、あのメイクが目指したエディ・マーフィーの見た目を笑ったんでもなく、ましてや黒人の見た目を笑ったということでもなく、メイクと変装と、素材である浜ちゃんの化学反応としての見た目が面白くて笑ったということになります。
つまりこのシーンには、浜ちゃん一人だけが他の人と違う変装をさせられ、その変装が思い切り良く振り切れたもので、かつ変であれば、たとえその変装がエディ・マーフィーではなく宇宙人やイカだったとしても、同じように笑えるような構造があったということです。
しかし、番組を一貫して貫くテーマがアメリカンポリスだったために、その文脈でいくとエディ・マーフィーが登場するのが自然だったということでしょう。
このあたりは、僕以外にも多くの人がそう思ったところだと思います。
ネットの反応を見ると、黒人を笑ってるんじゃない、という意見が多かったですしね。
被害妄想だとか、欧米の価値感を押しつけるな、といった意見も同様に多かったと思います。
これは、黒人を差別や侮蔑する意図がないのに、勝手にそう解釈されたことへの不満を、多くの日本人が抱いたということの表れだと思います。

さて、僕がこのシーンで笑った気持ちの中に、黒人の見た目自体を笑う気持ちは無かった、というのはそうなんですが、しかしですね、僕の隣に黒人の人がいる状態でこのシーンを見て、同じように笑えるのか?
と自問してみると、それはないと思うんですよね。

であれば、僕にとってこれはすでに一つの結論と言えそうです。
僕はこのシーンで笑うことは、黒人へのリスペクトを欠いた行為であると自覚しているわけです。
しかし、僕自身が黒人の外見を変だと思ってないのに、しかも笑いをとる構造としても、黒人の身体的特徴自体を笑いものにするものではないのに、なぜこのシーンで笑うことは黒人に対して失礼だと思うのか。
それは多分、ある人種が他人種に変装すること自体が、すでに失礼だと思っているからです。

それはどういうことか。

いったんここで、あのシーンとは離れて、他人種に変装すること自体を考えてみます。
まず他人種に変装する際には、その人種の身体的特徴を誇張したようなメイクにする傾向があると思うんですね。
たとえ特別に誇張するつもりがなかったとしても、真似される側の人種の人からすれば、自分達の身体的特徴を持っていない人種が、自分達のそれを真似してそう見えるように加工しているわけですから、ことさらに誇張されてるように見えるはずだと思います。
それだけでなく、この人種ってこうだよな!という風に勝手に決めつけられているようにも感じるんではないでしょうか。
実は自分達に存在する、様々な外見上の差異などは無視されているばかりか、偏見や、こうあって欲しいという子供じみた願望までが投影されているように感じることもあると思います。
つまり大概において、自分たちの存在自体がナメられているような感じがするでしょう。
そして実際に、変装する側は変装するという時点で、そういう相手側の心情に対して無神経になっているところがあると思うんです。
その無神経さは、自分が他人種の変装をするところを想像してみるとよく分かります。
たとえば白人ってこんな感じだよな…なんつって、鼻がすごく高くなるように付け鼻をして、目をこれでもかと大きく見えるようにテープでも貼って固定して、カラコン入れて、髪を金髪にしてウェーブをかけて、肌を真っ白に塗って、はい、白人です!なんてやるとしましょう。
たぶんその見た目はすごく変ですし、気持ち悪くさえあります。
でも、面白いでしょう。
元の状態と変わりすぎ、やりすぎで、思わず笑ってしまうほど面白い。
でもやってる本人が、これ白人怒るよな?と思ってしまうほど、なんかバカにしてる感がハンパじゃない。
ていうことだと思うんです。
どの人種がどの人種の変装をするんであれ、する側は無神経だし、される側はムカつくのが大概ではないでしょうか。
いやいや、リスペクトして変装してる場合もあるよ、という反論もありますね。
そういうケースもあると思います。
ただこの場合でも、変装される側はいい気がしないかもしれないですね。
おれは日本人を尊敬している!と言って、白人が髪を真っ黒にして目をめっちゃ細くして、顔の堀を埋めてきたら、なんかムカつきますもんね。
尊敬してんのは分かったから、その顔やめろって言いたくなると思うんです。
というわけで、そのような変装すること自体がすでに、ほぼ必然的に失礼さを伴ってしまうと僕は思います。
相手を不快にさせないことは非常に難しい。
例え変装する側に悪意がなく、相手にそれが伝わったとしても、どう感情を処理していいのか難しい感じにはさせるはずです。

で、あのシーンに戻ると、制作側は黒人にではなく、エディ・マーフィーに浜ちゃんを変装させたかったわけですが、黒人であるエディ・マーフィーに扮するには、まず当然黒人の見た目を作らねばならなかった。
そこには、どうしたって他人種に変装する際の難しさがついてまわるのです。
どうしたって失礼さを醸してしまうのです。
そもそも浜ちゃんをエディ・マーフィーに似せようとしたって似るわけがない。
せいぜいが黒人の真似です。
日本人からすれば、それでまあまあエディ・マーフィーに似せているように思えても、黒人からすれば、そうは思えないでしょう。
ただ黒人の真似をしてふざけてるようにしか見えないわけです。
たとえば、白人が日本人の有名人の真似をして変装すると言ったって、まあ日本人の側からすればあまり期待はできませんよね。
せいぜいその白人がイメージするアジア人の顔作ってくるぐらいだろうなと思うわけです。
で、実際お目見えした時の顔が予想通りだったとしたら、やっぱり少しは腹立つと思うんですよ。
日本人の真似するならいつもそういう顔にすりゃいいと思ってるんだろ?日本人の顔の違い分かんねぇんだろ?ナメんなよ!?
くらいに思うかもしれませんよね。
つまりあのシーンを見た黒人はそう思ったかもしれないということです。
その際、あの番組内での文脈どうこうは、考慮に入れたくもないでしょうし、必要も感じないでしょう。
黒人からすれば、そういう問題じゃね~よ、ってことだと思うんです。
もちろんね、全員がそう思うわけではないと思いますよ。
でも自分が黒人の立場ならそう思うだろうなとは思いました。
ですから、あのシーンで笑うことはそういった変装をする側の無神経さと失礼さを共有し、肯定することなわけで、だから黒人がいるところでは笑えないなと思ったわけですね。
でも、結局一人でいたから笑ってしまったわけですが…。
おそらく僕と同じように、ちょっとマズいんじゃないかな…と思いつつ、でも笑ってしまったという人も多いんじゃないでしょうか。
一方で、全くマズいとは思わなかったという人も沢山いるかもしれませんね。

ここであのシーンを見た黒人、特に日本在住の黒人がどう思ったのか、もうちょっと想像を膨らませると、先にも述べたように、自分達の身体的特徴を侮蔑されたような気持ちや、黒人自体が軽く見られてるような気持ちはまずあっただろうと思うけれど、実はそれよりも、黒人がそう受け取る可能性を考えていない演出をする制作側のデリカシーの無さと、その演出を笑う人々の同じようなデリカシーの無さに、ガッカリする気持ちを抱いた人の方が多かったんではないかと思います。
そして日本社会があのような演出を許容しているような雰囲気を感じ、悲しさを覚えたんではないでしょうか。
いやそれどころか恐怖さえ感じた人もいるかもしれません。
本の学校に通っている黒人の血を引く少年少女、そしてその親御さん達など、日本社会の一員として日常を過ごしている人々なら、そこまで感じてもおかしくはないでしょう。
彼らは日本社会におけるマイノリティであって、大人でも周囲の目を気にするところはあるでしょうし、まして学校なんて、ちょっとしたことでからかいやイジメが起こる場所です。
黒人の血を引く子供さんはたまったもんじゃなかったかもしれないですよね。
黒人だけではありません。
同じように日本社会においてマイノリティに属する人種の方なら、あのようなシーンが年末の特番で平然と放送されることに対して警戒心を抱いたかもしれません。

その点、あのシーンを作った制作側の人間達はどのように考えていたのでしょうか。
これも憶測でしかありませんが、おそらく特に何も考えていなかったんだと思います。
国内にいる黒人が見たらどう思うか、ましてや海外ではどう受け取られるか、といったことは意識されていなかった。
そしてあのシーンを堂々と世の中に放った。
まさかあのような反応が各方面から出るとは思ってなかったはずです。
制作側には、黒人の身体的特徴を差別する意図は無かったし、それは視聴者もそのように受け取るだろうと思ったわけですね。
実際、多くの日本人の視聴者がそう受け取ったことでしょう。
だからこそ、番組放送後に起こった、あれは黒人差別だ!という反応に対して、いや違うだろ!という反応もたくさん起こったんだと思います。

ここでちょっと参考までに、僕がネットで見かけた、あのシーンに対しての肯定的な意見を以下に書いてみます。
曰く、白人の変装したって文句出ないじゃね~かよ!黒人はなんでダメなんだよ。
曰く、ジャッキーチェンの物真似したって中国人差別にはならないだろ?それと今回のとどう違うんだよ?
曰く、日本人は黒人を奴隷にしてこなかったし、差別する気持ちもない。だから欧米の感覚であのシーンを解釈しないでくれ。あれは日本ではOKなんだ。
曰く、あれを差別だと騒ぐやつらの方が差別してるんだ。黒人を下に見てるからあれが差別に見えるんだ。

もちろんこの他にもたくさんの投稿があったわけですけど、とりあえずこんなところが多くの意見を代表してるのかなと思いました。
そして僕の印象では、上記のものに表現されているように、大部分の意見に共通している感覚があるように思えました。
それは、黒人の真似をした変装することを特別なNG事項にしてるんじゃないのか?それはおかしくないか?他の変装と比べてどう特別に悪いんだ?悪くないだろ?
というものです。

皆引っかかるのはそこなんですよね。
他にもいろんな変装がテレビの中で行われている中で、黒人に扮する変装が特別に差別だ差別だと騒がれている印象があり、もしそれが事実なら、黒人に扮する変装が特別ダメだという明確な理由を示してみろってことだと思うんです。

そんな意見に対し、黒人に扮する変装がいかにやってはいけないことか、その理由の説明を試みた投稿もありました。
その代表的なものは、黒人と欧米社会との関係の歴史をその根拠とするものだと思います。
簡単にそれを説明すると、黒人が奴隷にされていたこと、そして欧米社会において長い間差別されていた中で、白人が黒人を揶揄し、黒人が屈辱的だと感じていた表現の中にブラックフェイスがあったこと、黒人の社会的地位の向上と人種間の平等意識の高まりと共に、そういった表現が行われなくなっていったという経緯が在ること、以上のことを考慮すれば、黒人に扮するブラックフェイスのような変装がいかに黒人に対して失礼で、心理的ダメージを与えるかが分かろうというものだし、もし日本社会がブラックフェイスのような表現を特に問題と思わずに今後も許容するなら、世界中にその無知をさらすことになる、というものです。

なるほど、この意見は説得力がありますね。

しかし次のように反論したくなる方もいるでしょう。

欧米の白人が黒人の奴隷化と差別という余計なことをしてくれたおかげで、俺たちの表現の自由が狭まってるっていうことだよな?俺らはそんなことしなかった。
白人達が自分達の過ちを反省し、その考え方を改め、ブラックフェイスのような表現をしなくなったことは良いことだよ。
白人のそれには悪意があったんだからな。
でもその線引きを、黒人の奴隷化をしたことのない日本人にまで押しつけようとしたり、日本人がそれを受け入れないことで非難してくるのは筋違いなんじゃないか?
俺らのブラックフェイスには悪意はないんだよ。
という風に。

実際このような意見はネット上で結構見かけました。
これにもなかなか説得力がありますね。
何かにつけて欧米は、上から目線で自分達の価値観を押しつけてくるような印象を持っている日本人も多いでしょうから、このような欧米に対する反発心を含んだ意見が出てくるのもよく分かるし、意見自体にも妥当性があるように思えます。
所変われば、タブー視されることもまた変わるのは当然ですからね。
欧米はその当然のことを分かってないんじゃないの?ってことですよね。

うん。気持ちはすごい分かりますね。
ただ、ここで僕の意見を挟みますけれど、一定の妥当性がこの意見にはあるとは思いつつも、だから黒人に扮する変装はOKなんだということにはならない、と思うんですね。
それは、このブラックフェイス問題においてまず重要視すべきなのは、日本と欧米の歴史の違いではなく、日本人の黒人に対する差別意識の有無でもなく、当の黒人がどう思うかだと思うからです。
でもそんなの分かった上で、先のような意見を主張をしているんだ、という人もいるでしょう。
つまりそういう人は、黒人がどう思うかが大事なのは当たり前で、もし黒人があれを差別だと感じてるなら、そうじゃないってことを説明してやればいいと思っているわけです。
そしておそらく、黒人は奴隷にされた過去や、欧米社会で差別されてきた過去がトラウマのようになっていて、ブラックフェイスみたいな変装を見るとすぐにその過去と関連付けてしまうのだろうけど、それはこの日本では行きすぎた被害者意識だし、勘違いですらある、と言いたいのでしょう。
そのような黒人の意識を変えてやるには日本人が黒人を差別してこなかったという歴史的背景と、日本人は差別意識を持ってないよ、ということを教えてやればいいし、それさえ分かってもらえたら、ブラックフェイスのような表現を今後もやっていいのだと思っているんじゃないかと思います。

もしそうだとしたら、実はこのような意見はタチの悪いものじゃないかな、と僕は思うんです。

まずこの意見は、自分達には悪気はないんだ、従って自分達は悪くないんだという主張に貫かれています。
なんなら悪者にされた自分達が被害者であると言いたげな雰囲気もありますよね。
まあ、気持ちは分かります。
ですが、相手に自分達の気持ちと歴史の理解を要求し、自分達の正当性を確保しようとする一方で、自分達が黒人の気持ちや歴史に対する配慮に欠けていることは一顧だにしていません。
相手が何に腹を立てたのか分かってないと思わせる意見ですね。
相手も悪気は無いのはおそらく分かってるんですよ。
黒人をバカにしようとする意図でないことは分かってる。
そうじゃなくて、あのような変装はまず失礼で、黒人にとっては特別ナイーブなことですらあって、なのに、ごく平然と、悪気無しにやられてしまった。
その無神経さ、配慮の無さに、黒人は怒ったり悲しんだと思うわけです。
もっと言えば、そういった配慮すらされない程にしか、日本社会で認められていないことにショックを受けたんだと思います。
なのに、この意見は自分達に悪気が無かったの一辺倒。
さらに、自分達の気持ちや歴史を知って欲しいと主張した上で、それを知ったのにまだブラックフェイスが受け入れられないのだとしたら、それは黒人の心のキャパが狭いからだ、というところまで匂わせています。
随分上から目線の、居丈高な意見ではありませんか。
これは自分達が強い立場や、守られた立場にあって、それを分かっているからこそ言える意見です。
この場合の強い立場というのは、自分達が国内における圧倒的マジョリティであること、守られた立場というのは、海外からの批判に対しては国内に引っ込んでいればどこ吹く風でいられる立場であるということです。
このような立場あっての無神経さというところに、すごくタチの悪さを感じてしまいます。

しかし、実はこれと同じようなタチの悪さを伴った問題というのは、日本人同士の間でも存在するし、僕たちの身近でもよく目撃されるものだと思います。
例えばイジるイジられるという関係があるところには、そういう問題が発生しがちではないでしょうか。
イジる側がイジられる側より立場上強くて、そのイジりでイジられた側が傷つくケース、よくあると思います。
たとえばその時、イジられた側が勇気を振り絞って抗議してみたところ、イジった側がこう言ったとします。

ごめんごめん。でも悪気はないんだし、これぐらいのイジりはアリでしょ?

これは傲慢じゃないですかね。
職場でやったらパワハラ、学校でこれを継続的にやればイジメになるかもしれません。
力が在る者や、立場が上の者が言う、悪気が無いイジりだったという言い分は、確かにその通りなんだと思います。
相手を見下しているか、軽く見ているか、少なくとも相手に対して配慮が足りてない状態でイジっていますから、
発言自体を軽く考えていますし、悪いなんて思ってないのも当然です。
ですから悪気が無いというのは、なんの言い訳にもなっていない。
むしろ、相手のことをなんとも思ってなかったんだよ、と表明しているようなもんです。
イジられて嫌だった側は、その無神経さに対して怒っているわけです。
もしコミュニケーションの一つとして、イジることがポジティブな形で成立するとするなら、イジる側とイジられる側の間に一定の信頼関係が必要なことは言うまでもありません。
それが無いのにイジるのは当然相手を傷つける危険がありますからね。
仲の良い友達同士の間でのイジりは、相手のどこまで踏み込んでいいのかも分かっているし、そもそもその関係だからイジられても不快じゃない。
赤の他人に、友人にされるのと同じイジり方をされたら、めっちゃムカつくかもしれません。

では今回のブラックフェイス問題はどうなのかと言うと、
真似て変装される側の黒人が基本的には嫌だと言ってる。
変装する側の日本人の中にはブラックフェイスは問題無しと思ってる人が大勢いる。
日本人と黒人の仲はどうなんでしょう。
お互いの外見を真似た変装が“あり”な程、仲がいいのか。
違うでしょうね。
黒人が嫌だって言ってるんだから。
黒人を侮蔑する表現として悪名高いブラックフェイスを、そうと知らずに平気でやっちゃってるくらいなんだから。
お互い、未だ遠い存在だということです。
そしてたぶん、将来日本人と黒人がすごく近しい存在になったとしても、ブラックフェイスは“あり”にはならないでしょう。
親しい仲にも礼儀あり、という言葉の示す通り、やっちゃダメなことがあり、ブラックフェイスはその範疇に含まれると思います。
だってたぶん嫌ですもん、自分がやられたら。
たとえ仲が良くてもね。

さて、ではここで、僕が旅先の海外でやられて嫌だった、人種イジり的な経験を挙げさせていただきます。

と言って、僕が今まで行ったことのある国は、主にアジアの国々とブラジルで、直接に人種イジリみたいなのを体験したのはブラジルのみ。
なので、海外と言っておきながら、実はブラジル限定の話です。
はい、ではまずブラジルでよくやられたのが、おまえらってチンコ小さいよな!っていうのと、目細いよな!っていうイジリです。
これはもう何度も何度も、数え切れないくらい言われましたね。
一年以上のブラジル滞在期間中、基本的にアジア人がいないエリアに一人でいたので、物珍しがられましたし、よく話しかけられましたが、そんな初対面のブラジル人に、かなりの確率でそういうイジりをされたわけです。
そうやって言ってくる時の顔も、かなりバカにしてましたね。
もちろん言われた方はいい気分はしません。
チンコが小さいってのは分かりやすいですが、目が細いっていうのも、多くのブラジル人にとってはバカにしたくなる特徴のようで、手で目の端をグーッとつり上げて、彼らのイメージする日本人の顔を真似しながら、おまえらこんなんだよな!って言ってきます。
これは男性だけじゃなく、女性にも言われます。
一度、友人の知人の、とある高齢白人女性の家におじゃました時のことです。
その女性は品のある、ビシっとした感じの人だったんですが、僕の顔を見るなりこう言ったのです。
日本人にしては目が大きいわね。
そういった彼女の顔は不満そうでした。
え、なんで不満?ダメなの?僕がそう思ったのは言うまでもありません。
まあ、彼女にしたら日本人にはめちゃめちゃ目が細くあって欲しかったのに、僕の目が思ったより大きかったのが面白くなかったんでしょう。
その不満を隠そうともしないところに、かなり僕を見下してるな、っていう印象を受けました。
いや、たぶん僕だけではなく、日本人だけでもなく、彼女が思う、目が細い人種全般を見下しているんでしょう。
話をしていて、中国人と日本人、韓国人あたりを一緒くたにとらえていることが分かりましたし、これらの国の人間は、見た目も同じで文化もほとんど同じだという風に思っているようでした。
ここでは、これらの国の人を東アジア人とでも呼びましょうかね。
この女性のように、東アジア人的な身体的特徴をバカにしていて、従って東アジア人自体を下に見ている人間に、ブラジルではさんざん出くわしまして、それこそ、小学生くらいの子供から高齢の人までの様々な年齢層に、一通りイジられ、バカにされたんじゃないかなと思います。
背が低いとか、頭がでかいとかね、スタイルに関して色々言われましたよ。
僕はまあまあ身長がある(178くらい)ので、ブラジルでも低いほうではないんですが、そんなの関係ないですね。
僕より背の低いブラジル人に、中国野郎は背が低いと言われたことが何度もあります。
背が低いどころか中国人でもないわけですが、それさえおかまいなしです。
で、そんな風に東アジア人の身体的特徴をイジってきた人たちはどういう人だったのかというと、ごく普通の人間、つまり特に悪いやつというわけでもなく、家族や友達の前では、普通に良い奴だったりするパターンが多かったような気がします。
どこの国に行ったって、性格が心底悪いような人間というは滅多に出くわすものではありませんで、大概、話せばまあまあ良い奴なんですよ。
しかし、そういう人間が、簡単に、軽い気持ちで人種的な特徴を嘲るのです。
で、言われた方はどう感じるかというと、かなり嫌な気分になります。
悲しい、ムカつく、残念、そんな感情がごく当たり前に沸き上がってきます。
僕に出来たのは、せいぜいそういったネガティブな感情に飲み込まれないようにすること、まともに相手にしないことくらいでした。
この、嘲る側が罪の意識も無くお手軽に、言われる側にかなりのダメージを与えるというところに、一番の不公平と問題がある気がします。
試しに東アジア人的身体的特徴をイジってきたブラジル人に、君らはアジア人を差別しているのかと訪ねれば、そんなことはない、とほとんどの人が答えるでしょう。
というか、実際聞いたことがあるけれど、聞いた人に関しては全員、そんなことは無い!と言っていました。
ちなみに、聞いたのは20代から30代の男性でした。
子供なんかは素直に思いっきり差別してきてましたからね。聞く間でもありません。
この差別をしていないと言った人達は、差別という言葉が出ると、一様に警戒の色を浮かべたものです。
彼らにとって、差別というのはとても悪い印象で、社会的にも許されることではないという認識を持っているようでした。
ではどういったものが彼らにとって差別に該当するのかというと、おそらくもっと攻撃的で、悪意を伴ったものなんだと思います。
彼らにしてみたら、ちょっと見下しているだけなのに、差別だなんてとんでもない、ということになるんでしょう。
自分が差別をしているということになれば、罪を犯していると言われているようなもので、善良な市民である自分が軽い気持ちで発した言動を、そんな風に言われたくないというわけです。
そう、罪の意識は無く、大して悪いことをしているとも思っていない。
一方、ちょっと見下された側の僕はどう感じたかと言えば、かなりショックだったというのは先ほど述べました。
言われた内容自体も相当嫌なものではありましたが、その発言が僕に与えるダメージを大きくしたのは、内容よりむしろ、その発言の背後にある彼らの心理や、その心理を促し、そして支えるところの実質的な力だったと思います。
即ち、彼らの差別的なイジりからはその内容以外に、お前の自尊心など無きに等しく、見た目からして変で、異端の文化に属し、自分達と比べて下位の存在なのだ、という心理が読みとれましたし、その心理は、圧倒的多数の彼ら現地人と異国の地でたった一人の異邦人である僕との間にある明らかな力の差、つまり僕を見下してイジろうが何を言おうが彼らが悪者にされることは無いという、その実質的な力の差を背景に彼らが驕り、無神経になった結果、彼らの中に生じることが可能になったものに思えたのです。
この実質的な力と、それを背景にした驕った心理こそが、彼らの東アジア人イジりをして、彼らが思っている以上に残酷なものにさせたのでした。


さて、こういった僕自身のブラジルでの体験から、僕が何を言いたいのかというと、ここに人種的マジョリティとマイノリティが存在すれば、マジョリティは驕りやすく、マイノリティに対して無神経になりがちで、悪気なく彼らを傷つけ、本人達が想像する以上のダメージを与えがちだということです。
今回のブラックフェイスの件で言えば、日本人と日本在住の黒人の間には相当な意識の開きがあると想像します。
あの変装が差別かどうかで言うと、その判断はどの人間がするのかによって大きく変わってしまうものなんでしょう。
ちなみに僕の意見では、あれは差別表現ということにして、今後やらないほうがいいと思っています。
が、差別か否かという議論は重要な部分から遠ざかったものにも思えます。
ある人種を真似た変装が、その人種を不快にさせ、傷付けたり、見下されてるような印象を与えるなら、差別に該当するか否かの不毛な議論の前に、まず止めたほうがいいと、僕は思います。
きっと日本人が海外に行き、同じことをされたら、想像以上にキツいと感じるに決まっていると思いますから。
その時、その行為が現地で差別とされてるかどうかなんてことより、ただ止めて欲しいはずですから。
僕が海外で、自らが人種的マイノリティになって感じたことを、本国の人種的マジョリティに役立てる形で還元できるとしたら、そういうことなんですね。
昨今、訪日外国人の数は増える一方ですし、日本で就労する外国人の数もどんどん増えています。
そんな中、日本人が外国人と接する機会は当然増えています。
そして、ずっと日本で過ごしてきた日本人の中に、外国人に対して偏見を持っている人は、まあけっこういると思います。
僕の周りにもいます。
というか、僕自身まだ、いろんな偏見を持っていて自覚していないだけかもしれません。
それらの偏見が、日本で増えてきている外国人を不用意に傷つけることが出てくるでしょう。
そういう経験を経ることでしか人は変わっていかないのかもしれませんが、なるべく傷つく外国人が少なくあるように、反感を買う日本人が少なくあるようにという願いを込めてこの文章を書いた部分があります。
長くなってしまいました。
今回はこのへんで。ではでは。 

日常の中で海外と日本をついつい比較してしまう話

ブラジルに行き、そして帰国し、半年以上がたった。

何でもない日々の暮らしの中で、ふとブラジルのことを思い出したり、日本と比較してみたりしている自分がいる。
いや、ブラジルだけじゃない。
今まで自分が訪れた別の国々のことも思い出すし、またそことも比較している。
意識してそうしようとしてるわけじゃないんだけども、他の国を知ってから、自分の国を相対化してみることが僕の中でごく自然なことになってしまったのだ。
もちろん、国が変われば文化も習慣もまた変わるから、旅に出れば様々な局面でびっくりするような違いを体験することがある。
あの国はこうだったな…とか、日本とはこういう風に違ったな、とか今になって思い出すのはおもしろい。
というわけで、今後数回にわたってのブログでは、外国と日本を自分の中で勝手に比較し、そうして思ったことを気の向くままに書いていこうと思う。

前回はブラジルから帰国してすぐに感じた日本の印象について書いた。
それは自分にとってショックなもので、しばらくの間、それをどう理解すべきなのか、じっくりと考えを巡らさざるを得なかった。

 

akitsuyoshino.hatenablog.com

 

今回は、もうとっくに日本に馴染み、元の日常に戻った中でこれを書いている。
今の僕は、ああ、日本て居心地がいいな~、と日本を満喫している。
日本が大好きだということを再確認している。
日本を誉めたい気分なのである。
よって、僕が訪れた国より日本の方が優れているとか、僕が好きだと思える部分について主に書いていくことにする。
それはまさに今、日常の中でその恩恵にあずかり、僕が日本に居心地の良さを感じる要因になっているものだ。


まずは、社会インフラなどの、様々な設備のクオリティ。
中国やインド、ブラジルといった国々と比べると日本のそれはちゃんとしている。
行ったばかりのブラジルの道路、これはなかなかひどかったな。
大都市の中心街は別として、大概の地方都市の道路は穴凹がところどころ開いているのが常だった。
中には大事故につながるくらいの大きさのものもある。
明らかに危ないんだが、放置されている。
ブラジル人は、日本にはこんな道路ないだろ!?なんて笑っていたが、確かに無いだろう。
こんなものを日本で放置していたら新聞沙汰だ。

またブラジルでは下水処理がうまくいってないところも多いらしく、実際、住宅街の中をものすごい悪臭を放つ河が流れていたりした。
そのすぐ目の前に住宅が建ち並び、普通に人々が生活していたのだ。

建物も、日本のは作りがしっかりしているように見える。
中国ではビルの外壁にヒビが入っているのをよく見かけた。
なんなら新しいビルでさえ、ヒビが入ってたりした気がする。
日本ではそんなのを見た記憶がない。

香港で割といい値段のするホテルに泊まった時には、浴室の排水口が詰まっていて水が流れなかった。
フロントにそのことを伝えると、そんなこともあるわいな、くらいのリアクションだった。
部屋は変えてくれたけども。
ホテルでこれだと、一般の住宅はどうなっちゃうんだろうと思わされた。
インドでは安いゲストハウスならシャワーがちゃんと出ないとか当たり前だった。
目の前で天井に取り付けられたファンが外れて落下し、ゲストハウスのオーナーを直撃したこともある。
オーナーは苦笑いしていたが、さして動じてもいなかった。やはりそんなこともあるわいな、くらいの感じだった。
それを見た僕が、自分のベッドの真上に設置されたファンに、とてつもない恐怖を感じながら毎夜寝ることになったのは言うまでもない。
宿泊施設の設備が社会インフラに含まれるのかどうかはよく分からないんだけども、要は、ぶっ壊れた物とかちゃんと機能しなくなった物がそのまま放置されている状態を、僕が行ったことのある新興国ではよく見かけたし、そういう状態に無頓着な雰囲気が社会を覆っているように感じた。
その点、日本は全然違いますわね。
もちろん、今の日本の社会インフラが老朽化などの様々な問題を抱えていることは知っているけれども、それでも、もともとちゃんと作られているもんだな、という印象がある。
ちゃんとした物を作り維持するんだという責任感が、作り手にあったんだろうと感じる。
ブラジルや中国やインドではその責任感という点で、ん??と思わされるものを多く見かけたのだ。

 

さらに、様々なサービスにおいても、海外に行くと日本との違いにびっくりする時がある。
たとえばインドに行っていた時にこんなことがあった。
僕はとある大都市にいたのだけど、そこで手持ちの金を使い果たしてしまった。
もう10年以上前の話で、当時の僕はクレジットカードは携帯せず、トラベラーズチェックという小切手を持ち歩いていた。
それを使いきったのだ。
アホだ。
カードがないから、日本の口座からお金を引き出せない。
どうにかして日本の口座から、インドにお金を送金したかった。
調べてみると、その大都市にある日本のメガバンクの支店で、そういう手続きが可能だということが分かった。
早速行ってみる。
僕はハーフパンツによれよれのTシャツにサンダルという、絵に描いたような貧乏バックパッカーの格好をしていた。
銀行内に入ると、客はほとんどいなく、閑散としている。
カウンターの行員達は暇そうにしていた。
皆インド人のようだった。
一人の男の行員と目が合った。
回転いすの背もたれにグダっと体をあずけ、というかのけぞらせ、さらに右へ左へと回転いすをクルクルと回転させ、ああ、暇を持て余すとはこういうことだよと教えてくれてるんだな、と一瞬錯覚しそうなほどのふてぶてしさである。

イラっとしたが、向こうは向こうで、何だコイツ?という感じでこちらを見ている。

いや、いやいやいや…。
何だコイツじゃね~よ。客だよ。
そう思うが、ここはインドだ。
腹をたてたら負けだ。

自分から話しかけた。

すみません、日本からこちらの銀行にお金を送金したいのですが。

すると行員は、これぞ見下している!という表情で言った。

出来ない(笑)

相変わらず回転いすをクルクル回転させながら、かったるそうな彼の表情は、早く帰れよこのくそ貧乏バックパッカーが!と言っていた。

しかし、こちらもこんなヤツに門前払いされるわけにはいかない。
インドで金がないというのはシャレにならない事態だ。
必ずお金を送金してもらうまでは引き下がれない。
第一、出来るはずなのだ。

粘って話続けた。

彼もなかなか折れない。

出来ないんだよ。そんな手続きはここではやってない。
お前はそんな情報をどこで得たんだ?
おれはここの行員だぞ?
他をあたれ!

日本で最も有名かつ由緒正しきガイドブックである地球の歩き方の本年度版にそう書いてあったんだよボケが!
むしろなんでテメエが知らねえんだよ!
と言おうとしたけど、ぐっとこらえた。

ここの上司は日本人じゃないのか?
もし今日本人がいるなら合わせて欲しい。
本当に困っているんだ。

そう下手に出て頼み込んだ。
根負けした彼は、お前ごときの為に上司呼ぶのかよ、という態度を隠そうともせず、だるそうに電話をかけた。

しばらくすると日本人の女性が階上から降りてきた。

お待たせいたしました。

そう言ってお辞儀をする、いかにも、いかにもしっかりとしたその日本人女性を見た時の僕の安堵感が分かるだろうか。
やっと日本人が思うところの、普通の行員が出てきたのだ。

上の階にお上がりください。

そう丁寧に案内され、応接間に通され、およそ僕の格好に似つかわしくない上等なソファーに座るよう促され、お茶まで出てきた。

そうして待っていると、今度は日本人男性が出てきた。

お待たせしてすみません!

そうにこやかに挨拶してくれた彼はなんと支店長だった。

こんな、どうかと思う格好をしている僕の話を親身になって聞いてくれた上、その手続きなら出来ますと、至急やりましょうと言ってくれた。
他愛もない雑談もし、終始なごやかな雰囲気だった。
階下でインド人に雑な対応を受けた後だったから、余計に感動してしまった。

支店長と別れ、階下を通って銀行を出る時に、先ほどのインド人と目が合った。
その表情は相変わらず僕をバカにしていた。
こちらの言い分が合っていたわけだが、それについて気まずいとか、申し訳ないとか思っている風には見えなかった。
やれやれ…。


とまあ、こんな風な体験をしたのだが、僕が言いたいことは何となく分かっていただけると思う。


日本人の対応は丁寧なのだ。
それもおそらくは相手によらず。
もちろんこの一件はすごく分かりやすい例としてあげたまでで、これだけで結論めいたものを出そうというのではない。
ただ、新興国を幾つか旅した上での僕の感想を言えば、接客とかサービスを行う人の対応が、総じて日本のそれより丁寧さで下回ってくる。
中にはすごく丁寧な人もいるから、あくまで僕が感じた平均値なんだけれども。
ただ、日本ではありえないレベルの対応をしてくる人がけっこういたりするのだ。
先の例の人はまさにそう。
さすがに、日本ではあんな行員いないだろう。
しかしあの行員にしたっていつもあんな感じではなく、彼から見てちゃんとした客が来た時には丁寧に対応するんだと思う。
相手を見てかなり態度を変えるはずだ。
みんなにあんな対応していたらさすがにクビだろうし。
この点で、日本人はそこまであからさまじゃない。
内心では、やだな~と思ってたって、態度にはなかなか出さない。
きっとそれが最低限の礼儀だと思っているからだ。
訪れた新興国では、そのへんの感覚が違うんだろうなと感じた。
しかしこれも国別に感触がだいぶ違ったりもする。
インドはカースト制が社会に根付いているせいか、相手の社会的立場によって態度を変えることが、もっとも露骨に行われているように感じた。
中国では相手どうこうより、自分が気にくわなければ、思いっきりそれを態度に出してくるような印象。
ブラジルは接客態度が悪いと思ったことは実はあまりない。その場では丁寧に対応してくれることがほとんどだ。
ただし独得のルーズさがあり、そこを考慮すると、全体として丁寧と言えるのかは疑問だ。
これにはちょっと説明が必要だと思うので、自分の体験で具体例を示したい。
ある地方都市で、全国展開する大手銀行の支店に入った。
(例をひくのがまた銀行の場面だが、思い浮かんだ中でこれが最も分かりやすい例に思えたので悪しからず。)

中では大量の客が待っているのだが、たった二人の行員のみで窓口対応していた。
その時点で日本人としては違和感があった。
窓口は他に幾つもあるのに、稼働しているのは二つのみなのだ。
日本ではあまり見かけない光景だろう。
他の行員は窓口業務が出来ないのだろうか?
そんな疑問が当然湧く。
何十人もの客が待ってるのだ。
この状況で窓口業務をしていない行員達がのんびりして雑談など交わしていることにも驚かされる。
さらに衝撃的なのが、そんな状況にもかかわらず、その窓口業務を行っている二人でさえ全然仕事を急いでいないのだ。
客と明らかに仕事と関係ない話をして盛り上がっている。
全く急ぐ気がない。
そんなんだからいつまでたっても順番は回ってこない。
それでも、待たされている客が怒らず辛抱強く待っているのはすごいと思ったが、時計を気にしている人はたくさんいたので、やはり何とも思っていないわけではないんだろう。
しかしそんな彼らでも、自分の番が回ってくると雑談してしまうのだが…。
このような状況に遭遇したのは一度や二度ではなく、ブラジル各地の銀行で何度か遭遇した。
あと、ブラジルでビジネスをやっている日本人の友人曰く、にこやかに約束をしてくれるのだけれど、その約束が守られないことが多いらしい。
そしてそのことを悪びれもしなかったりするので、やはり感覚がだいぶ違うところがあるということだ。
つまりブラジルでは対面での人当たりはいいのだけど、その実、客のことをどれだけ大切だと思って仕事をしているかというと疑問符がつくわけである。

というわけで、僕が今まで訪れたインド、中国、ブラジルといった国で僕が受けた様々なサービスと、日本で僕が受けた様々なサービスを比べると、日本の方が良くしてくれるし、信頼できる印象だ。
日本の場合は、お客さんのことを考えて、みんなに分け隔てなく同じ質のサービスを提供し、かつ早いのだ。
そりゃあ、日本にだって気分の悪い対応してくる人もいるし、先に挙げた国でも、素晴らしい対応をしてくれる人もいるので、あくまで僕が感じた平均値みたいなものなんだけども。
やっぱり日本では一定の水準のサービスが受けられることを当然のように思っているし、それはこの国で暮らす上での大きな安心材料だ。
そしてそういう安心感をなかなか持てない国も多いのだ。

日本で当たり前に受けているサービスは、それが当たり前でない海外から帰ってくると、すんごくありがたいもので、そういう意味では日本ていいな~とすごく思う。

今の僕はそれを満喫している。

そう、これはかなりラッキーなことなのだ。

貧乏な上に世の中にロクに貢献していない僕なのに、ちょっと出歩けば下にも置かない扱いを受けれるのだから。

 

 

帰国時の日本の印象

ブラジルから帰ってきました。

ただいま~、パチパチパチ。

それでですね。

僕は過去に何度か海外をふらふら旅してたことがあるのですが、日本に帰って来る度にいつも感じることがあって、それが前から気になっていたんです。
そして今回のブラジルからの帰国時にもご多分にもれず、また同じことを感じました。
やはり気になったので、今日はそのことについてちょっと書いてみようかなと思います。

まずそれを感じるのは、海外から帰って来てすぐのことなんです。
すぐというのは、成田空港に着き、空港内を移動して電車に乗り、都内に向かう、その帰国してから1、2時間足らずの間です。
つまりそれは僕にとって帰国した日本の第一印象とも言えるものなのです。

あれ、日本てこんな感じだったっけ?
そんな風にそれは違和感を伴いつつ、けっこうはっきりと感じられます。

では僕が一体何を感じているかと言いますと…

それは人々の表情が乏しくて、なんだか感情があまり無さそう…

というものなんです。
それだけでなく雰囲気が暗くも感じます。

で、これは自分の中ではけっこうびっくりしますし、ショックなんですよね。

海外にしばらくいて、いよいよ日本に帰る時というのはわくわくしてますし、まあ色々楽しみなんですよ。
べつに海外が嫌になって帰国してくるわけじゃないんですけど、僕は日本人だし、日本ならではのインフラの整い方とか、食べ物とか、そういうものが待っていると思うと、やっと帰れるという気分の高まりと安堵感があるんです。
愛するホームなんです。

で、期待して帰ってきて、まず最初の印象が、
なんか暗い…、だと、やっぱりショックなんですよ。
都内に向かう電車の中で周りを見渡してみて、話しかけやすそうだなと思うのは、あろうことか外国人。
いきなり話しかけても気さくに話してくれそうな雰囲気があります。
一方、日本人にはなんか話しかけづらい雰囲気を感じます…。
話しかけてもとまどわれそうな気がする。
なんなら嫌がられそうな感じがする。
そんな感じがスゴいする。

つまり僕は日本人なのに、日本に帰ってきて一番先に友達になれそうだと感じるのは外国人なんです。

おいみんなどうした? 
なんでそんなブスっとしてるんだ?
なんかあったのか? 
電車乗ってるだけだから、そりゃ何にも楽しくないのはわかるけどさ、もうちょっと、こう… あるだろ?

そんな、疑問とも訴えともつかない思いにかられます。

でも10分も乗ってればだんだん分かってきます。
多分これが普通の感じなんだ、と。
きっと、僕が海外に出る前からこうだったし、僕が忘れちゃってるだけなんだろう、すぐ慣れるさ、なんて考えます。

でもね。

それにしても雰囲気が暗い感じがするよな?
元気ないし、みんな辛いことを我慢してるみたいだよ?

すぐまたそんな思いが浮かんできて、そう簡単に割り切れなかったりするのです。
やはり、先の印象はなかなかに強いし、腑に落ちないんですよね。

僕は日本人て暗いな~、と思って、日本で暮らしてきたわけじゃないし、よくしゃべって明るい人もたくさんいるし、みんながみんな思い悩んで日常をおくっているとも思ったことはありません。
それなのにその記憶が、この、海外から帰ってきたばかりで感じる電車内の人々の雰囲気と合致しないんです。

こんなんだっけ?
別に海外に行ってたと言っても、せいぜい一年とかそこらですよ。
そんなに日本が変わってるはずがない。

と言うことはそうか。
やっぱり僕が気づかなかっただけで、前から日本人はこんな感じだったんだろう。
海外の人を見慣れてから比較してしまうと、このように無表情で暗く見えてしまうってことなのかな。
みんな暗いわけでも、感情が無いわけでもないんだろうけど… 

まあ、そう思いなおすわけなんです。

しかし、こんな風に見えるんだな…。
日本にいて、日本人に囲まれて生きてきた中では、そう意識させられたことも、考えたこともなかったわけですから、今こうして感じている日本人の印象というのは明らかに、海外に滞在して外国人を見慣れた目で日本人を眺めたことで、生じたもののはずでした。

なんで?
なんで、無表情に見える?
なんで暗く見える?
もしかして本当に感情が乏しいのだろうか?
見かけだけでなく、本当に気分が暗かったりするのだろうか?

それらの疑問はいつも海外から帰国する度に浮かぶものではあったのですが、まともにそれに答えを出そうと思ったことはなく、いつの間にか忘れてしまうのが常でした。
しかし今回の帰国時は、その長年の疑問に自分なりに答えを出してみようと、初めてまともに考えを巡らせてみたのです。
それはおそらく、今回のブラジル滞在時に、日本人に対する偏見にさらされることが多く、その度にその偏見を訂正しようと僕なりに努力してきたからかもしれません。
ブラジル人には、日本人はあまり楽しむことをしない国民だと思われていたのです。
働いてばかりで酒も飲まず、寡黙で、遊ばない人々だと。
そうじゃないよ、と、日本人は確かによく働くけれども、休日には家族や友達と遊びに行くし、平日でも毎晩、歓楽街は賑わっているし、わいわいやっているよと、伝えてまいりました。
日本人はあなた達が思っているよりもよっぽど遊んでいるし、楽しんでいるよ、と、言い切ってきたんです。
そうして帰ってきたら、帰国一発目の電車内で、あれ?っと思ってしまったわけですね。
こりゃ、暗いと思われても仕方ないんじゃね~か、って。
まず自分がそう思ってしまったんですからね。
だから、どうしてこんな感じなんだろうって、半ば義務のように考えたわけなんです。


 最初は見た目、それも人種的な見た目に原因があるのかな、と考えました。
今回はブラジルから帰ってきたわけですが、基本的に向こうではアジア系以外の人と接する機会が多かったんです。
彼らは白人や黒人、あるいは様々な血の混じった混血だったりしましたが、その顔の作りは一般的に、アジア系、特に東アジアのモンゴロイド系人種に較べると彫りが深かったり、目鼻立ちがはっきりしてたりと、造形がより立体的だと言えると思います。
そんな彼らの表情は自ずとはっきりとして見え、それを見慣れて帰ってきた結果、日本人の表情が乏しく見えたのではないだろうかと思ったのです。
平均的な日本人の顔立ちは相対的にどことなく静かというか、感情の浮き沈みを感じさせづらいところがあると思ったわけですね。
これはまあ、間違っちゃいないでしょう。
一つの要因ではあると思います。
でも、全面的にそこで決着させられるかというと、そうじゃないな、とも思いました。
顔の造りは決定的な要因ではないはずなんです。
と言うのも、かつて、中国から帰って来た時も同じことを感じたからです。
中国は多民族国家ですが、僕は当時、主にモンゴロイド系、特に漢民族の人々と接してきましたし、彼らの顔の造りは僕にしてみれば日本人とほとんど違いが無いように見えます。
それでも日本に帰って来た時、なんか日本人の表情が乏しい、暗い、と感じたんです。

顔の造りだけが原因じゃないとしたら、じゃあ、何が原因でそう見えるのかな…。

そんなことを思っていたら、ふと、この件に全く関係のないことに気をとられました。


この電車でどこまで行くんだっけ?


乗り込んだこの電車は、成田を出る最終でした。

僕が行きたいのは新宿。
ホテルが予約してあります。
成田で駅員さんに聞いたところ、
この電車は○○だから、乗り換えをしなくちゃいけなくて、それを間違えると新宿に行く電車が(時間的に)無くなってしまうよ!
ということでした。
途中の△△で乗り換えるんだよ! って言ってた気がするんだけど、どこだっけ?
忘れちった。
車内の路線図見ても、いまいち分からない。
あいにく調べようにも、手持ちのスマホは日本で使えるようにはまだなっていません。

どうすんべ。人に聞くか。

誰に聞こうかな、と周りを見ると、一番近いのは隣に座っている、20代前半と思しき女の子の二人組。
ここに聞くのが自然だろうと思いました。

すみません。

そう話しかけたんです。

すると女の子の反応がですね…。
まず、こっちをまともに見ようともしてくれません。
そして、うわっ…って、避けるような雰囲気を出してきたわけです。
まあ一瞬ですけどね、もう明らかにそう感じました。

何の用だ?
ナンパでもされるのか?
変なヤツじゃないか? 

いきなり車内で声かけられて、そんな思いが彼女の脳内を駆け巡ったのでしょうか。

こりゃマズい、と思い、間髪入れずに畳みかけました。

新宿に行きたいんですけど、この電車をどこで乗り換えていいのか分からないんです。海外から帰ってきたばかりで、自分のスマホがまだ使えないので、ちょっと調べてもらえませんか?
って。

すると、女の子は若干安心したような表情を浮かべた気がしたような、しないような。
そして、あ、はい…、と小声で言って、スマホをピピピっといじって検索結果を僕に教えてくれたのです。
いい人ですよ、間違いなく。
すいません、ありがとうございます、と僕が言うと、無言でうっすらと女の子は会釈をして、それで二人の会話は終わったわけですが…。

この時、僕はこう思わずにはいられませんでした。

やっぱ暗くないか…?。
なんか、お互いに悪いことしてるみたいな雰囲気だったよな…。

そりゃね、僕は男だし、いきなり女性が見知らぬ男に声かけられたら、一旦警戒するのは当然だと思います。
それに自分は、一見して女性受けがいい面構えでもございません。
これが、ジャニーズみたいな爽やかな面だったら、また女性の反応も違ったのかもしれません。
そこはごめんよ!マジでごめん。

でもね、僕が今まで行った海外で、この日本人の女性のような反応というのは、体験したことが無いんですよ。
例えば行ってきたばかりのブラジルで言えば、すみません、と声かければ、女性でも真っ直ぐにこちらを見返してきて、話を聞く態度を見せてきます。
初対面のアジア人相手ですから、多少警戒心は持っているはずですが、それでも笑顔さえ浮かべて対応してくれます。
警戒してまっせ!引いてまっせ!という感じは見せないわけです。
横文字使って言ってしまえば、フレンドリーかつハートフルなんですね。
フレンドリーはともかく、ハートフルって日本語で言うとなんだ?
心がこもってるとか情熱的みたいなことですかね。
この場合では情熱までは込めてませんから、とりあえずコミュニケーションに心がこもってるってとこです。
そうなんですよ。
初対面だろうが、真っ直ぐ相手を見つめて、笑みさえ浮かべて話す姿勢を見せる。
当然、そのやりとりはどこか明るいものです。
とりあえずブラジルではこんなコミュニケーションの取り方が普通だと僕は感じていました。
そういう意味ではとても話しやすいんですよ。
そういう意味ではね。

ところが、日本に帰ってきて、同じ日本人に話しかけてみたらどうです!?
すみません、の時点で、もう警戒。避ける。
そしてにこりともしません。
終始ほぼ無表情だったのです。
悪くはありませんよ!
あの女の子は親切でした。
彼女なりの精一杯の対応をしてくれたんだと思います。
僕に文句を言う筋合いがあるわけがありません。
ただ、コミュニケーションが取りづらいことや、会話に感情が全然のってないことにびっくりしたんです。


つまり僕はここで、初対面の日本人女子との会話を持ったことで、思いがけず最初の印象をより強くしてしまいました。

やはり勘違いではなかった。
見た感じの通り、話しても暗かった。

暗く見えたのはやはり、顔の造りの問題ではなかったんです。
実際に心を閉ざしているような、感情表現を抑えているようなところがあるのだと、そう感じました。
そしてそれは、僕が話した女の子だけではなく、おそらく車内の日本人のほとんどに当てはまることに思えました。
だってみんな同じような感じに見えましたからね。
もちろんそれは僕の勝手な思い込みである可能性はあるにせよ。

でも改めて周りを見渡してみて、こう思ってしまったんです。

期待できないな、って。
そして、期待もされてないなって。

何をか。

“情”の交換です。

愛情とか、友愛の情とかの、心が暖かくなるような情、です。
自分も相手に情を伝えるつもりがないし、相手から受け取るつもりもない。
人間同士の関係を非常にドライなものにとどめたい。
また、そうすべきだ。
そんな意識が共有されているように見えます。
その為に、見知らぬ者同士の距離感が遠い。
先の僕のように、いきなり話しかけ、その距離を一気に縮めにくる人は、暗黙のルールを破っていることになるので、当然警戒されるのでしょう。
もし車内にいる、海外から来たばかりのフレンドリーそうな外国人から、情の交換を期待する気持ちを抜いてしまい、またそうしなければいけないと信じ込ませれば、たちまち同乗している日本人達と同じ雰囲気を醸し出すようになるに違いありません。
情を交換するつもりが無く、またそうすべきじゃないのなら、感情を働かせる必要もなく、当然表情だって動かなくなっていくわけです。
そして、いきなり話しかけられたら、笑顔を浮かべて対応するどころか、警戒心を浮かべた表情で、必要最低限の言葉をもって、なるべく早くその場を終わらそうとするようになるでしょう。

 

しかし、なんで情の交換を避けるのかな?


そこにはそれなりの理由が必要だと思いました。
だって、初対面だろうが、会話は暖かい方がお互いに気持ちいいですからね。
つまり、もっと感情をやりとりする方が自然だと思うんです。
こんな風に、互いを警戒してるかのような距離感があったり、無感情の会話をするからには、そうせざるを得ない理由が必要に思えました。

お互いに信用してないのかな?

いや、でもそんなことがあり得る??

日本は世界の中でもかなり安全な部類の国ですよ。
外をびくびくして歩かなくてはいけない国では全くありません。
よく言われるように、女性が夜中に一人で歩いていても、基本的に大丈夫と言える国なんです。
それにかなり均質な文化を持っています。
つまり日本人同士であれば、ほとんどの場合、同じような社会通念と習慣、文化をベースに持っていると想定していいわけですし、また無意識にそう思って、多くの人が暮らしているはずです。
その意味で、人種、民族、宗教、文化が大きく異なる人々がダイナミックに混在している多民族国家とは事情が全く違います。
隣に座っている人や、目の前に立っている人が、異なる生活習慣を持っていたり、人種が違ったりするかもしれないということを、日本人はあまり想定しないで普段生きているわけです。
そしてそういった均質的な環境の中で、日本人は、普段は意識しなかったとしても、一定の安心感を持って生きているはずではないでしょうか。
さらに、日本人は礼儀正しく、約束を守り、公共のルールもよく守る、というのは世界的に知られている日本のイメージであり、日本人自身もそう思っているところのはずです。
であればですよ…
お互いに信用できる要素ばかりじゃないですか?
少なくとも、日本人のお互いに対する信用が、他国のそれと比べて少ないとは思えません。
むしろある方だと言っていいはずです。
でもそうだとすると、互いの感情のやりとりを避けていそうなことや、距離感が遠いことは不自然です。
普通に考えて、信用できる相手とはコミュニケーションがとりやすいですし、距離感も近いはずですからね。
つまり不思議なことに、日本人はお互いに危害を加えない相手としてとか、文化的摩擦を生まない相手としての信用は、他国と比べてある方だと思えるのに、それが互いの感情表現のし易さだったり、距離感の近さにつながっていないように見えるわけです。

これは矛盾したことのように思えます。


しかし、現実が矛盾するはずもないですわね。


とすれば…。

均質的な文化や、礼儀正しく、約束を守り、公共良俗を重んじる、そんな日本人の特徴と、この車内の重い雰囲気や、初対面の者同士の情の通わないやりとりは、実は全く矛盾しないもの、なのかもしれません。
多民族国家で、治安が日本よりもはるかに悪いブラジルで、初対面の人間同士が日本よりはるかにフレンドリーに話せるという現実にも、なんら矛盾はないのかもしれません。


しかし、どのように考えれば矛盾がないと言えるのか?


それを説明する上で真っ先に重要に思えたのが、一般に通用する礼儀、です。
言うまでもなく、礼儀は良好な人間関係を作り、維持し、集団に秩序をもたらす為に必要不可欠な、暗黙のルールですわね。
どこの社会に行ったって、その社会特有の礼儀が存在することでしょう。
それに、その社会の持つ性格のようなものが、その社会で一般的に通用する礼儀には集約されているし、逆に礼儀を土台にその社会の性格が作られていく面もある、と思います。
さらに言えば、その社会が目指す理想が、その社会の持つ礼儀には示されていたりするとも思うんです。

日本の礼儀。
それは人間間の序列を非常に気にするもの、と言えないでしょうか。
その序列は年齢であったり、社会的立場であったり、その他の様々な人間関係上生じるものであったりするでしょう。
さらに日本の礼儀は、敬う、という精神性を非常に重視したものでもあります。
 従って日本では、相手を敬い、相手の前で失礼がないように自分を律し、時にかしこまることが良しとされ、その暗黙の法が下地になった上に、あるいはそれを理想と掲げたその下に、あらゆるコミュニケーションが築かれている気がします。
その法でいけば、相手に直接的な感情を放つことが、すでに失礼にあたりかねません。
もちろん、普段のコミュニケーションの中で、すごくかしこまったり、情を含まない儀礼的な対話しかしていないわけじゃないんですけど、おそらくは、敬う、ということを対人関係上の価値の最上位に置いているであろう日本人のコミュニケーションは、どこか自分の感情を抑制し、儀礼的な色彩を帯びる傾向があるんではないでしょうか。
どんな感情であれ、(それが例え友愛の情であれ)、自分が抱いたそれは、身勝手なものかもしれないのですから。
だとしたらそれを素直に表現することは相手に対して敬意を失していることになる。
それこそ日本人が基本的に避けたい事態であって、結果、敬うという以外の感情表現を自粛し、相手に失礼がないようにするという方向に行きやすいのではないでしょうか。
日本人にとって、お互いは、丁重に扱うべき存在、というわけです。
 
 では、ブラジルではどうでしょう。
例えば初対面の人間同士のあいさつは、
初めまして!とか、元気!?とか、調子どう!?とか言って、にこやかに握手したり、肩を抱き合ったり、ほっぺたにチューしたりします。
これには年齢の上下も関係ありません。
僕も、自分よりも一回りも年齢が下のブラジル人に、こんな感じで挨拶されてましたし、自分もそうするように心がけていました。(なかなか馴れませんでしたが…)
挨拶ばかりではありません。
通常の会話も、基本的に年齢に関係なく対等な感じです。
さらに年齢差だけではなく、社会的立場とかを含めても、対等なコミュニケーションを阻む要素は、あまり無さそうでした。
敬語みたいなものが使われているのも聞いたことがないですしね。
もちろん、ブラジル人も目上の人とかに気を使ったり、尊敬の念を示すことはあります。
が、平均すれば日本人に比べて、はるかに対等な感じで、お互いが接しているように見えます。

で、そういう対等なコミュニケーションの取り方が習慣として根付いていますし、これがつまりブラジルにおける礼儀と言ってもいいと思います。
しかし、ただ対等に話すというのではなく、そこに友愛の情が込められていることが大事で、それこそブラジル人のコミュニケーション上の礼儀の中で、最上位に位置づけられるものだと思います。
いくら形は丁寧に挨拶しようが、友愛の情が込められていなければ、それは失礼なのです。
つまり、積極的に、あなたに会えてうれしいとか、あなたと話せてうれしい、という感情を伝えること、それが大事なんですね。

 というわけで、ここで日本とブラジルを、一般人レベルの礼儀で簡単に比較してしまえば、日本では人間関係上の序列が意識され、敬意が最重要視されるのに対し、ブラジルでは対等な人間関係が意識され、友愛の情が最重要視されると言っていいのかなと、僕は思いました。

 そしてブラジルではこんな光景も目にしました。
大の大人が複数の他人がいる前で涙を流して、嗚咽までもらして、泣いているのです。
聞けば、身内に重大なトラブルがあったとのことでした。
そして、彼とまるで関係のない周囲の人々は、そうした彼の、公の場におけるあけすけな感情表現を、さも当然のように受け止め、話しかけ、慰めていたのです。
そんな光景を一年ほどの間に幾度か目撃しました。
 ブラジルではあらゆる感情が割とオープンに、人前でさらけ出されている好例と言えるでしょう。
自分の感情をなるべく抑えないで、表に出す。
そして他人がそうすることに対しても寛容。
それがブラジル人の気質であり、ブラジル社会の性格でもあり、また、礼儀に落とし込まれているものでもある、と思います。
 一方、日本ではその逆、と言ってもいいでしょうかね。ネガティブな感情どころか、ポジティブな感情でさえ表に出さないことが、奥ゆかしさとして良しとされることすらあるお国柄です。
自分を律し、感情表現を抑制しがち。
そして、それを他人にも求める。
それが日本人の気質、日本社会の性格、そして礼儀に落とし込まれているもの、と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
 そうするとこのあたりで、先ほど矛盾に見えたことも、少しそうでなく見えてきた気がします。
つまり日本人は敬意を人間関係上、最重要かつ必須なものとして捉え、それを元にコミュニケーションをし、その延長上に日本の社会秩序もある。
その中で個人は、敬意以外の、あらゆる直接的で“感情的”な表現を、相手への気遣いと社会秩序の為に自粛する傾向があり、その感覚、その常識を共有する者として、一定の信頼を互いに置いている。
それが、初対面の人間同士が集まる公共の場においては如実に反映され、互いの距離間と、気軽なコミュケーションの難しさに現れているというわけです。
こうして考えれば、僕が帰国した直後に電車という公の場において感じた重苦しさとか、人々に感情の動きが無さそうに見えたことも、多少は説明できます。
やはり、みんな知らず知らずに、自分の感情を抑え、檻の中に入れているところがあるんではないでしょうか。

ここで、ふと、その影響が出てるんじゃないかなあ、という例が思い浮かびました。
ほら、皆さんは、困っている人が急に目の前に現れた時、すぐ助けるべきところを躊躇してしまい、行動に移すことが出来なかったり、遅れたりして、後で自己嫌悪に陥る、なんてこと経験したことありませんかね。
優しくないわけじゃない、人に親切にしたい気持ちも持っている、それなのにそれを実行できる機会がいざ自分に訪れた時、なぜか躊躇してしまう。
公の場で、多くの人がいればいるほどそうかもしれませんよね。
僕は何度かそういう経験があります。
なんでか?
たぶんこれなんかも、公の場において、知らず知らずのうちに、感情を檻の中に入れて、生身の自分というよりは、公(おおやけ)仕様の儀礼的な自分になっている為に、いざ血の通った感情の発露が必要になった時に、反応が遅れる、ということなんじゃないかな、と思うんです。
自分を檻から出して、自由にさせてやるまでのタイムラグがあるわけです。
失礼になってはいけないという、鉄のルールで出来た檻が、自分を押しとどめる要因になっているんですね。
だからなんでしょう。
情けない話ですが、自分の場合、海外にいる時の方が、ごく自然に躊躇無く人助けが出来ています。
海外での方が、自分を躊躇させるものを感じないんです。
この例は、他人に失礼があってはいけないという意識が個人の感情の動きを抑制するために、それが逆に他人の為には裏目に出てしまうという、極めて日本的な皮肉、と言えないでしょうか。


 そして日本社会の治安や公序良俗が安定して、信頼感があるのに対して、ブラジルでそうでない理由も、その一端くらいはこの流れで説明できそうですね。

日本では人を敬い、公の平穏の為に自分の感情を抑え、時に犠牲にすることすらが美徳としてあり、実際ちゃんと実行できているかは別としても、少なくとも一般の人の意識の中に、それが理想として根付いている傾向があるのに対して、ブラジルでは人を敬う、という感覚は薄く、互いに対等な関係を望み、自身の感情の奔放を許し、我慢はあまりせず、他人にもそれを求めない、という傾向があり、その結果、公序良俗という面では、あまりかんばしくなかったりするわけです。
もちろん、社会全体の秩序のことを説明しようとするのであれば、他にもたくさんの要素がからんでくるので、それだけでは説明仕切れないんですけど、ただ、それが部分的な要因であるというのは、僕には確かなように思われます。
 物事が大体においてそうであるように、日本でもブラジルでも、その持っている気質や礼儀は、良い結果ばかりでなく、そうでないものも産み出していると思えます。

さて、ここで、僕の好みを言わせてもらうなら、
日本とブラジルの礼儀やコミュニケーションの在り方を比べた時、断然日本のそれの方が好きです。

は!?

いやいやいや、あんた散々日本のことを暗いだの、コミュニケーションが取りづらいだの言ってたじゃないかと、だったらブラジルの方がよっぽどあんたの好みに合ってるんじゃないかと、ブラジル行けやと、そう思われる方も当然いらっしゃることでしょう。

ごもっともですね。

僕が帰国した時に感じた印象は素直なもので、取り消すつもりはさらさらありません。
それでもなんで日本の礼儀やコミュニケーションの在り方の方が好きなのか。
結論から言ってしまえば、まあ、日本で育ったからでしょうね。
日本的な美意識に共感してしまうのです。
日本人の対人関係の肝は敬意ではないかと僕は書きました。
人を敬うことは、自らの謙虚さ、慎み深さにもつながりますし、それらは日本的美意識の重要な部分を担っているものだと思います。
それらが僕にはとても、美しいものに感じられるのです。
ブラジルでもそうでしたが、海外に行くと、そういった美意識という意味では、物足りないなというか、違うな、と感じます。
平たく言えば、もっと分かりやすく、派手なものを求めている国が多い気がしますし、そこでは、日本的なというか、慎み深い美というのは、あまり理解されなさそうな気がします。
それは僕には寂しく感じられます。
別にどっちがいいとかは言えませんけどね。
僕は日本的な感じの方が好きなんです。
だからと言って、電車内が重苦しい雰囲気の方がいいとも思いませんし、初対面の人間同士は堅苦しい会話をした方がいいとも思わないんですね。
つまり、日本人がお互いに敬意をもって接することは素晴らしいことだとは思うのですが、愛情表現をそこまで抑える必要もないと思うわけです。
愛情とか友愛の情とかを伝えることは、それ自体素晴らしいことで、これに反対する人はあまりいないと思いますしね。
で、ですね、先ほどまで、僕が帰国直後の電車内でとまどいを感じた重苦しい雰囲気の説明を、この国の礼儀や、習慣に求めてきましたが、それだけで全部を説明できたとはまだ思えていません。
それだけではあのような雰囲気にならないような気がするんです。

僕はさらにこう思ったんです。

失礼があってはいけない、という思いが脅迫観念のようになっては、自分の心は萎縮してしまうし、敬意を払うことを相手に強要しては、相手の心は萎縮してしまうだろうと。
敬意を失した表現や行動をした相手を叩くことが当然と思う人が多くなってしまえば、互いに相手が無礼をする瞬間を見計らい、そこを攻撃しようと待ちかまえるような、ギスギスとした緊張感のある社会になってしまうだろうと。
それは目指している社会ではないはずです。

でももしかして今、そうなってしまってるんじゃないの?って思いました。
確かに、敬意を重視する対人作法は、ストレートな愛情表現を阻むものにはなりうるでしょうが、それだけではこのような雰囲気になりそうもない。
やはり、お互いに警戒してるところがあるはずに思えました。  
しかし、それは先に書いた通り、身に危険を及ぼすような危害を与えてくるような相手としてや、文化的摩擦を産む相手としての警戒ではありません。
暖かい感情の交換でさえ、無礼だと叱責されかねない相手としての警戒。

あるいは素直な気持ちのコミュニケーションを嘲笑されかねない相手としての警戒。

礼儀を傘に着た、傲慢な相手としての警戒です。

電車内の人々から受ける感情が萎縮しているような印象が、事実を捉えているのだとしたら、その萎縮の背後には、そういった警戒心、あるいはあきらめがあるように思えました。

そういった人間達の間で当たり障りのない人間であろうと、悪目立ちしない人間であろうと、そう人々が望んでいるように思えました。

おそらく、もし互いに、自然に敬意を抱けるような社会が実現できたとすれば、そこには暖かい空気が流れていることでしょう。

そして、初対面の人間同士は、敬意を抱きながら、ごく自然に感情を乗せた温もりのある会話ができていることでしょう。
でも、現状はどうやらそこから程遠い感じです。
ならば、互いに自然な敬意を抱けるようになるまでは、とりあえず、僕らはお互いに未熟な人間同士、互いにそれを認め、寛容になる必要があるはずです。

でも、今の日本社会には、その寛容さがきっと少ない。

海外にいても、今やネットで日本のニュースは簡単に見れますから、チェックはしていました。
芸能人が浮気したとかで、その当人がボッコボッコに言われてるのとか見ると、すげーな、と思いましたよね。
これなんか、叩く側が、叩いてもいい大義名分として、社会に対して失礼だろ!というのを掲げているような気がしました。

失礼だ! これは現代日本において、まるで印籠のように機能する言葉かもしれません。これを掲げればこそ、直接関係のない人々が叩きにいけるんでしょう。
直接関係なくたって、社会を構成する一員としては、立派に攻撃する理由がある、と言えるんですからね。
他にも、職場でのセクハラ、パワハラ長時間労働なんかを苦にして亡くなった方もいましたね。
けっこうそういう被害に遭っている方は多いのかもしれません。
これなんかも、社会秩序や集団の為に、自分の感情を抑えがちな日本人の美徳と、それを互いに強要する悪徳が、不幸な相乗効果を生み出したものと言えないでしょうか。
引いて見てみれば、個人の権利は法で守られているのにも関わらず、それを実際には行使できず、死ぬまで追いつめられていくんです。
そこまで当人を追い込むことが可能なのは、会社に貢献することこそが至高の善であると、上司の命令に従うことは多少理不尽でも絶対であると、そしてそれが出来ないということは非常に礼を失したことで、即ち人間として無価値なのだと信じさせ、心理的に逃げ道を封じることがこの国では容易だからではないでしょうか。
そうした上で、序列を利用して様々なことを強要し、肉体的、精神的ダメージを与えることを正当化し、その状態を継続することが簡単に出来てしまうのでしょう。
単に仕事が出来ないのであれば不当なダメージを与えることなく辞めさせればいいわけです。
しかしそうはせず、仕事が出来る出来ないとは実は関係なく、都合の良いように利用するだけ利用して痛ぶるわけですから悪質ですし、日本人の性質を知り尽くした日本人らしい蛮行だと言えると思います。

労働環境以外の理由も多いんでしょうが、日本の年間の自殺者は減ってきているとは言え、未だ多いようです。
そのうちの何割かは知りませんが、日本社会の不寛容さが原因となった死者が大勢いるような気がしてなりません。

つまりは今、目に見えない不寛容という圧が、個々の日本人を上から圧してるんではないでしょうか。
そして個々の日本人がその圧を生み出してもいるんではないでしょうか。
僕が帰国した直後の電車内で目撃した日本人から感じた異様な雰囲気は、そんな圧だったのではないでしょうか。そんな気がしてならないのです。

本来は美徳であるはずの、敬意を重視し、公の為に自らを律する礼や習慣が、それを運用する我々日本人に愛が伴わない時、度が過ぎ、恐ろしく息苦しい状態を生み出しうるということだと思います。
いや、ともすれば、単に他人を攻撃したいという気持ちの隠れ蓑や言い訳として、礼や習慣が使われていることさえあるのでしょう。
そしてそんなことが至るところで行われている、そんな状態に今の日本はなっているのかもしれません。
その結果として、みんな、心を檻の中に入れて、閉ざし気味になってしまっている。
怖いですからね。
不寛容で怒りやすいお互いのことが。
とりあえずルールを守って、距離を保ってやっておけば、危険は最小限だな、と。
事なかれ主義になってしまっている。
そりゃ、冷たい雰囲気にもなりますよ。

僕は帰国するときにそんなことを想像することも、意識することもなく帰ってきました。
海外で日本のニュースを見たところで、その時は、へ~って思いますけど、帰国時のウキウキ気分の中では忘れていますからね。
ところが、最初に乗った電車の中で、何か押さえつけられているような、互いを警戒するような日本人の雰囲気を感じ、ショックを受けました。
まあ、そこで、ネットで見たニュースやなんかが思い出されてきたわけなんです。

でね、もし僕があの電車内で感じたような雰囲気を、今の日本社会全体が纏っているんだとしたらですよ、まあ、そうじゃないかと予想するんですけども、それって寂しいことじゃないですか。

ブラジルではよくこんなことを言われました。

お前の国では、働きすぎて死ぬやつがいるんだろ?ありえね~(笑)

それには反論できませんでした。
でも仕事もなく、それを不景気のせいにして、昼間から酒を飲んでいるような人間に言われるのも納得いかなかったですよ。
けれど、彼らなら、会社や上司に服従して、働きすぎて死ぬこともないんだろうとも思ったのも事実です。
彼らは個人の感情的自由を、謳歌していました。
それを日本人並に抑制することなど、そんな状況に身を置くことなど、考えられないでしょう。

だから彼らは、働きすぎて死ぬなんて、ただの哀れなやつだと思うのでしょう。
日本人でもそう思う人はいました。
でも、そう簡単に言ってしまえることだろうか。
日本人なら、死ぬところまでいかなくても、多かれ少なかれ、集団の為、公の為に我慢し、感情に抑制を効かせているところがあるじゃないか。

一体、それは何のためか?
そこに何の意味もないのと言えるのか?

例え仕事がなくても、家族といて、昼間から酒も飲めて、ストレスもなさそうなブラジル人と、仕事に忙殺され、従順すぎて、社会や会社に殺されかねない日本人。
そこだけ見比べてみれば、ブラジル人のほうが幸せそうに見えるのかもしれませんが、それでも僕は、日本人が好きだし、もし生まれ変わっても日本に生まれたいと思うんです。
感情を押さえ込んだような顔で電車に揺られる日本人の方が好きなんです。
それはきっと、僕が日本人だから、というのが大きいんでしょうが、それだけでなく、日本人が高い目標を掲げているように思えるからです。
日本人が目指す社会の形があると思うし、きっとそれはとても美しいものだと思うからです。
でも、度々になりますが、その社会は決して今のようなものではないとも思います。
日本人が集団的に、集団の意識として、というんでしょうかね、そんな風にして抱いている社会の理想型みたいなものがあるとして、それはきっと、自分を律し時に抑え、集団の為、公の為に身を粉にして働くことを厭わず、自らをその方向で昇華させることができる、そんな精神性を持った日本人だからこそたどり着けるものなのではないかと思います。
しかしもちろん、そこに至る過程で誰も犠牲を強要されることはあってはならないでしょう。

だから別に海外を見習った方がいいだなんて思いません。
ただ、日本人である僕達が目指す社会はどういうものなのかは、もっと考えて、もっと自分達自身に問うて、社会全体で微調整していけたらいいと思うんです。
みんな我慢してるだけじゃどこにも辿りつけませんもんね。
もし日本人が、その集団的で潜在的な美意識なり理想を実現出来たとしたら、集団的な幸せの度合いも、個人的な幸せの度合いも、更新されるだろうと思います。
そしてそれは高度な目標だし、そこに至る道のりはなかなかに難しいものなんでしょう。
でも、どういうわけか日本人は難しいところを目指して発進してしまったのだし、それが実現出来る国民だとも、僕はなぜか信じています。
客観的な根拠は無いんですがね。
ただ、何カ国かを旅してみて、日本人はやはり繊細で特殊な感覚を持っていると感じたのが、自分なりの根拠なんです。
僕らがおぼろげながら抱いている理想を、僕らがはっきりと自覚できるのはいつになるのか、その理想を実現でいるのがいつになるのか、わかるはずもありませんが、そこに至るまで手を取り合って、互いにもっと寛容になって進んでいけたら素敵だな、なんて思います。

そんなことをつらつらと考えていると、時間はあっという間で、電車は新宿に着いてしまいました。

久しぶりの東京。
新宿。
目に飛び込んできた光景は圧倒的でした。
南半球最大の都市であるサンパウロが、遠く霞んで思えてしまう程の偉容。
深夜12時をまわって尚、視界を埋め尽くす光。
道を埋め尽くす人。
ブラジルの都市とは比べものにならないほどのエネルギーを感じます。
先ほど暗く感じた電車内とは打って変わった世界です。
しかし、確かにすさまじいけれども、その原動力を一つ上げるならば、それは真っ先に欲望でしょう。
ぬくもりをもたらす愛は、この空間を支配する原理ではなありません。
でも間違いなく面白い。
常に傍観者に過ぎない旅人を喜ばせるには申し分ありません。

帰ってきたんだな…。
母国日本。

その首都たる東京はとんでもない。
こんなすごかったんだ。
これで不景気とか言われても、とても信じる気にはなれません。

でも、ああ、気になるんだよな。
これだけの偉容を維持する為にどれだけの人の労力が必要だろうか。
その為にどれだけの人が堪え忍んでいるだろうか。
この大都会がどれだけの人を幸せにしているだろうか。
道行く酔っぱらい達は、一時の享楽に浸っているようには
見えるけれど、どれだけの人が、心の奥深くからの喜び、あるいは平安に浸れているのだろうか。
実際のところは知る由もありません。
ただ、この光景を見た時に素直に感じるものは、一過性の、瞬発的な享楽、欲望です。
ここはそれをひたすら生み出すことのために存在するかのような街なのです。
その意味において、とても魅力的な街です。
でも、その下で、そんな享楽を生み出すことのために、誰かの欲望を満たすことのために、自分の全てを差し出すような労力を提供し、消費される人間がいるとしたら、自分はそうはなりたくないし、その人達にはそこから逃れて欲しいと思いました。
まあ、思うだけなんですがね。

ふと見ると、一人のサラリーマンが道端に転がっていました。
しっかりスーツを着ていながら、ゲロを吐いて、突っ伏しています。
すげ~な。
これこそ、公共の平和が高度に保たれながら、それでいて抑圧的な日本を象徴すると言っていいかもしれません。
まずブラジルの人間はこんな真似は出来ないし、やらないでしょう。


旅から帰ってきたかと思いきや、依然として旅が続いているような気分でした。
ブラジルより余程、日本の方が不思議な場所に思えたんです。
何というか、複雑なのですよ、この国は。
多民族国家であり、広大な国土を持つブラジルより、余程理解が難しく、奥行きがあるように感じられるのです。

これからは日本をもっと旅したい。
そんな風に思いました。

ブラジルにて ③ ~日本人の印象②完結編~

前回の続きです。
http://akitsuyoshino.hatenablog.com/entry/2017/05/14/070032

日本の家は小さい。日本の国土は小さい。

こんな風に飲み屋のおっさん達から言われたわけですが、家の大きさについては前回反撃をしました。

次は国土ですが…。
この時は反撃できませんでした。
何と言ってもブラジルの国土は日本の23倍。
世界5位を誇っているのです。
ブラジル人が日本を小さいと思うのは当然なのでしょう。
だから、単なる事実として受け止めても良かったんですが…。
ただ、引っかかる感じがあったんです。
というのは、彼らのイメージする日本の大きさが、実際の大きさよりはるかに小さいように思えたからなんです。
あんな小さいところにどうやって住めるんだ?
ぐらいの感じで言ってくるわけですよ。
そこに人口が多いイメージが加わることで、彼らが思い浮かべる日本というのは、国土全体にビッシリとミニチュアみたいな家が密集し、余ったスペースなんてほとんど無い、という事態になってるようだったんです。
そこまで極端に国土が狭いわけではないことはなんとか説明できたと思うんですが、じゃあどのくらいの広さなのか、というのは上手く伝えられなかった。
国土の大きさを示す具体的な数字は覚えてなかったんです。
ただ、僕個人としては日本の国土を狭いと体感したことはありませんからね、その感じを伝えたかったんですけど…。
やはり言葉の壁は大きくてですね。
それで簡単に、

僕は日本を狭いと思わないよ〜

なんて言ったら、ウッソだ〜ってめっちゃ言われました。すげ〜小さいじゃんって。
クソ…!
僕の中で、もういいや!ってなりました。

次に日本人は働きすぎてて、全く遊ばない、の件です。
僕そんな詳しくないですけどね、日本人は働きすぎだって日本国内でも問題視されてるのは知ってましたから、そこは否定しませんよ。
でもね、全く遊ばないって何なんだよ!って思いましたよね。
飲み屋のおっさんはこう言ってくるわけです。

日本人は朝から晩まで働きまくって、帰って寝るだけだろ?一日16時間働くんだろ?

って。
いくらなんでもみんながみんな、帰って寝るだけの生活してないし、日に16時間も働くわけないじゃない。
そりゃそういう生活してる人もいるでしょう。
僕もそれに近い生活してる時ありました。
でもそんなの、会社とか仕事によるじゃないですか。

それ言いました。
会社とか仕事によるよって。
そしたらおっさんは、

ウッソだ〜!ニュースでやってたぞ!みんなそんな生活してるって言ってたぞ!

って言うんですわ。
もうね、どこのニュースだよ。連れてこい、そいつ! って言いたくなりましたよね。
まあ、言葉の問題で、実際に言ったのは以下の言葉です。

みんなじゃね〜よ。みんな16時間も毎日働いてたらみんな死んじまうじゃね〜か!

おっさんは、そりゃそうだな…みたいな顔を一瞬しましたが、まだ納得はしてないようで、
でもなぁ…ニュースで言ってたもんなぁ、と食い下がるんですわ。
しつこいなぁと思いつつ、ビールを飲んでいると、

日本人ってアルコール飲まないんだろ?

と聞いてきたんですよ。
は!?お前の目の前で飲んでるのは誰なんだよ!
って言おうかと思いましたが、そこはグッと堪え、
 
飲むよ。

とだけ、言いました。
へ〜〜って顔してましたね。
どんだけクソ真面目な国民だと思われてるのか…。これはちょっと想像を超えてるなって思いました。
僕の周りの日本人なんて飲む人ばっかりだし、何なら毎日飲んでますからね。
そんな人世の中ザラにいるわけじゃないですか。
どうやらここのブラジル人達は、そんな呑兵衛の日本人がいるとは思いもしなかったようなんです。
女の子だって飲むよ。と言うと、ウソだろ!?
って感じで、もう彼らの日本人像というのは根底から覆されたかのようなリアクションなんですよ。
しかし、そうはさせじと彼らは抵抗するわけですが…。
なんで抵抗するんだよ!って思いますよね。
日本人がそう言ってるんだから素直に信じてくれよって。
ともかく、ここのおっさん達には、土日には家族で色んな観光地に出かけたり、友達同士で飲みに行ったり、遊び行ったりする、そういう日本人のイメージが無いみたいでした。
多分おっさんの主たる情報源はテレビでしょうから、テレビがそういう偏った情報を流してるのかもしれないですね。 
しかし、そうだとしても見る側の理解の仕方にも疑問があります。
流石に、日本人の一日の平均労働時間が16時間だ、なんていう明らかな誤報をニュースが流すわけありません。
このおっさんの場合、自分が既に持っていた日本人のイメージに寄った形でニュースの情報を誤って理解してしまったんだと僕は予想します。
と言うのも、実はこの後、この田舎街から何千キロも離れた場所で、そのようなことが起こる現場を見てしまったのです。

それは年始のニュース番組でした。
世界の色んな国の年末年始のイベント事を紹介していたのですが、その中で日本の餅つきの様子も紹介されてたんです。
そしてご丁寧にも、毎年餅を詰まらせて亡くなる老人がある、という情報まで言い添えてありました。
それを見た、あるブラジル人のおっさんは、口をあんぐり開けて興味深そうにしていました。
そして後日。
僕の目の前で、そのおっさんは別のブラジル人に、日本人は米を炊いて、ブラジル人のように食べたりはしない!(ブラジル人は米が主食で、炊いて食べます)炊いた後、ベッタンベッタン木で打っ叩いて、ネバネバにしてから食べるんだ!そしてそれを詰まらせて死ぬんだ!と言っていたのです。

おい、ちょっと待てと。

ここに自分がいて良かったと思いましたよ。
日本人は基本的に米を炊いてそのまま食うし、餅はいつも食うもんじゃない。食って死ぬ人も確かにいるけど、そんなに危ないもんじゃないよ、と説明させて頂きました。

つまりですね、このブラジル人のおっさんは、正月の餅つきを日本人の日常的行為だと拡大解釈した。
そしてそこには、日本人は変わった習慣、理解に苦しむ習慣を持つ人達であって欲しいという、願望の力添えがあったように思えました。
たった1分の映像と、彼の元々持っている日本観が反応して、新たにヘンテコな日本観が作られた…。
この時はテレビでしたが、これがテレビではなく、ユーチューブだったとしても同じことが起こることは容易に想像がつきますね。
いや、ユーチューブでの方が、よりそのようなことが起こりやすいかもしれません。
何しろ、放送されるものをただ受け身で見るのではなく、自分の好みと傾向に合う動画を積極的に選んで見ることができるわけですから。
ますます自分の固定概念を強化してしまう可能性が十分にあります。
前回も紹介しましたが、サソリの串焼きを食べる中国人の動画を見て、中国人、日本人、韓国人はみなサソリを食うと思ってしまう、というのはその典型例ではないしょうか。
ちなみにこのサソリの件は、今回ブラジルに滞在した中で、何度も言われました。
で、その度に僕は、この映像は日本でも韓国でもなく、中国のものであると。しかも、中国人がみんなサソリを食べるわけではなく、一部の人が時々食べたりする程度なんじゃないか、と説明するのですが、なかなか信じてくれません。
まず、中国や韓国や日本が違う文化を持ってるということを覚えるのが面倒臭そうです。
見た目同じだから全部同じだと思ってるし(実際よく言われます)、その先入観を変えることに、まるで嫌な勉強をするような抵抗があるようです。
中国や韓国や日本はヤバい!って思ってたほうが分かりやすい上に面白い。
それが現実は違うということになると、分かりにくい上に、小バカにできるネタが一つなくなるので面白くない、そんな風に見えました。

今回のブラジル滞在中に、僕が幾度も聞かされた日本の印象は、このサソリの件だけではありません。
ここでもう一度、前回のブログに書いた、僕が飲み屋で聞かされた日本の印象をおさらいしてみましょう。

まず褒められてる点。

1:日本社会は非常に秩序がある。
2:科学技術が発展している。
3:日本人は礼儀正しい。
4:日本人は頭が良い。
5:経済的に豊か。(店の親父は世界一位の経済力だと思っていた)

次に決して褒めてはいない点。

1:目が細い
2:ち○こ小さい
3:女は胸が小さい
4:働き過ぎで全く遊ばない
5:国の面積が小さい
6:家が小さい
7:自然災害が多い
8:犬を食う
9:サソリを食う
10:ジャッキーチェンすごい

ここに書かれていることは、褒められてる点も、決して褒めてない点も全て、あの場末の飲み屋だけに留まらず、行く先々で繰り返し何度も聞かされました。
まるで日本人に会った時にはそう言うように教育でもされてるかのように。
そして上に書いたこと以外によく言われたのには、日本人は信用できる、というのがあります。
これは本当によく言われました。
一番よく言われたかもしれません。
それに、目が細いっていうのと(これは左右の手で目を横に引っ張り、極限まで目を細く見せる仕草とともに言われるのが通常のパターンです)、犬を食う、というのを合わせて、よく言われることTOP3と言えそうです。
この一番言われたかもしれない、日本人は信用できる、という日本人観は、言うまでもなく一朝一夕で作られたものではありません。
日系移民の方々、特に一世や二世の方々がブラジル人社会に強烈に印象付け、守り続けてきたものでしょう。
日系移民がこの国に存在せず、日本人がブラジル人にとって、単に遠く離れた国の人達に過ぎなかったのなら、信用できる、という印象は決してブラジル人の中に浸透していなかったと思います。
信用とは人と人との密な関係の中で、ある程度の時間をかけて醸成されていくことでしか作られないものでしょうから。
他の日本人観に関しては、どこかで聞き齧ったり、映画やテレビやネットで見たりした程度でも、広まっていけるものばかりではないかと思います。


と、こうして見てくると、ブラジル人が持つ、なかなか複雑な日本観というのが浮かび上がってくるんではないでしょうか。
一口に尊敬されてるとも、バカにされてるとも言えません。
両方あるんですね。

ブラジル人は日本の文化に対して、ほとんど仰ぎ見るように、尊敬してる部分があります。
それは、日本人は信用できる、秩序がある、礼儀正しい、という評価に現れています。
こうして日本を褒める時のブラジル人には、一方でブラジルときたら、もうめちゃくちゃだよ…という自嘲的な態度が見られることもしばしばでした。
そこにあるのは、ブラジルは到底日本のようにはなれない、という諦めにも似た感覚のようでした。
しかしそうして日本を褒めた人が、次の瞬間には日本をバカにするような感情を覗かせたりする。
それは多くの場合、日本と中国、韓国の区別についての会話の中で明らかになります。
彼らは大概、これらの国の区別に無頓着で、3カ国全てで同じ言葉を使い、一人っ子政策があり、言論の自由は無く、犬を食うと思っていたりする。
そんなことはない、文化も政治形態もそれぞれ違うんだよ、と僕が言うと、そんなことはない、同じだろ? っと返事が返ってくる。
とは言え、そう言う彼も分かっているはずなんです。
試しに、寿司はどこの国の食べ物だい?と聞いてみます。すると迷わず、
日本だ!
という返事が返ってきます。
寿司は中国や韓国の食文化であるというイメージにはなっていない。
日本のオリジナルの食文化であるという認識がしっかりあります。
そして、信用できる、秩序がある、礼儀正しい、という日本人に対する印象を、中国人や韓国人にも持ってるのか?と聞くと、そういう印象は持っていない、という返事が返ってくる。
となれば、彼の中で日本人と中国人と韓国人は食文化も国民性も違うものとして認識されているということになります。
少なくとも、日本の特性と思われているものが、中国や韓国のものとしても認識されているわけではない。
しかし、逆はあるのです。
つまり、中国や韓国の文化を日本も共有してることになってる。
一人っ子政策は中国の政策だよ、とか、日本人は犬を食べないよ、と伝えた時に、若干残念そうな顔をして、中国も韓国も日本も一緒だろ?っと言い返す彼らの表情からはアジア人の区別なんてどうでもいいんだという、侮蔑の感情も読み取れるのです。
ここに、僕は不思議な矛盾を感じてしまいます。
日本人を尊敬すると言っていながら、日本人と中国人と韓国人の区別なんかどうでもいいとも言う。
日本人を含めた東アジア人全てを見下したような態度をとる。
この矛盾して見える心理は、僕が接したブラジル人の多くに共通してあるもののようでした。
僕は今回のブラジル滞在の中で、このことをどう解釈したらいいのか分からず、戸惑いを抱き続けていたように思います。
しかし旅も終盤に差し掛かった今は、何となく、僕なりにですが、彼らの心持ちが分かるような気がしてきました。

まず、彼らは基本的には東アジア人の、恐らくはモンゴロイドの身体的特徴を見下している部分があるのだと思います。
そして、遠い場所にあり、長い歴史を持ち、独特な文化を育んだ東アジア全般にミステリアスなイメージがあります。
そこには何かしら惹かれるものがある一方で、心理的距離も感じています。
あくまで、東アジアは異質な文化圏であり、親近感は抱きづらいのです。
東アジアに幾つかの国があることは知っていても、その違いまでは知らない。
非常に漠然とした、オリエンタルなイメージで一括に捉えているわけです。
しかし、そんな東アジアの国の中で、唯一日本には具体的なイメージを持ちやすかった。
東アジアで唯一、日本からは大量の移民が渡ってきたからです。
日系移民に接したブラジル人は、日本人の特徴を具体的なイメージを伴って理解し、それが伝聞としてブラジル社会に浸透していきました。
そしてその特徴の中には、ブラジル人が尊敬したがるものも多く含まれていたのです。
しかし、日系移民も今や3世4世の世代が多くなり、彼らは生まれも育ちもブラジルで、つまりブラジル人です。
日本文化の特徴は当然失ってきている。
そしてその人口もブラジルの総人口の1パーセントを占めるに過ぎない。
となると、東アジアのなかで唯一具体的なイメージがある日本人にしても、現在身近に感じられる存在ではありません。
一度、東アジアのヴェールの向こうから顔を出し、強烈な印象を残した日本人は、再びヴェールの向こうの東アジアに去ってしまったのです。
そう、あのミステリアスで、惹かれる部分がありながら、異質であり、親近感が湧かず、肉体的にはちょっとバカにしたくなってしまう人々の文化圏、東アジアです。
ブラジル人はそんな、心理的距離のある東アジアの情報を雑に扱ってしまう傾向があるように見えます。(いや、実は他の地域に対してもそういうところがあるのですが、ここでは言及しません。)
そこには日本人も当然含まれているのです。
こういったところに、僕が出会ったブラジル人の多くが、日本に対して尊敬と侮蔑という、両極端な感情を同居させていた理由があるのではないかと思います。
更に、この20年くらいは中国人と韓国人の移住者が増えてきたようです。
その中で、特に中国人のイメージがあまり良くないようなんですね。
ブラジル人の中でも、東アジアの情報を雑に扱ってしまう傾向を強く持つ人々の間では、既にその中国人の良くないイメージが日本人のイメージの中にも流入してきているようです。

さて、ここまでブラジルにおける日本人の印象を書いてきましたが、出来れば、日本人や東アジア人が侮蔑されてるようなことなどは書きたくはありませんでした。
しかし今回の滞在では、かなり露骨に侮蔑されることが頻繁にあり、これは困ったな事態だな…と思ったんです。
もし、僕が日本人ではなく中国人だったなら、この侮蔑は更にひどいものになったんではないかと予想します。
僕が体験したリアルなブラジルを伝えるという意味においては、その侮蔑された部分も避けては通れないなと思い、隠さずに書きました。
ただ、今回の記事だけでは、いや~な印象をブラジルに持ってしまう方もいるかもしれませんので、そこは今後、ブラジルってそういう部分だけじゃないんだよ、ということでバランスとっていきたいと思います。
もちろん侮蔑の言葉なんて一言も吐かない、ただただ親切なブラジル人もいますからね。

そして、前回も書いた通り、これはあくまで、僕が体験し、感じ、考えたことに過ぎません。
他の旅行者や滞在者の中には、全く違う体験をされた方もいるかもしれません。
まだ日系人が多く住む地域には行ってませんから、そういう地域ではまた事情はかなり違うのでしょう。
そして文中、ブラジル人、と一口に言ってますけど、ブラジル人を一括にするのは、非常に難しいことではあります。
ただ、幾つかの地域を訪れた結果、ブラジル人の日本人に対する印象がほとんど同じに思えたこと、更にブラジルに数年住んでいる僕の友人も、僕と同じような感想を持っていたことから、そんなに偏った見方にはなっていないんじゃないかと思っています。
そういったことを踏まえた上で、以上の記事を理解して下さればと思います。
ではでは。


 

ブラジルにて ② ~日本人の印象①~

ブラジルにいます。
今回はブラジル人の日本人に対する印象について書いていきます。

ブラジルには日系人がたくさん住んでいることは、知ってる方も多いと思います。
ですから、ブラジル人もある程度、日本の文化について知識を持っているんだろうな、ぐらいのことは想像しますよね。
まあ、僕はそう思ってました。
しかし、その知識がどういったものなのか、どの程度浸透しているものなのか、そこに関しては見当もつきませんでした。

で、実際来てみると、なるほどこんな感じなんだと、けっこうインパクトがあったので、報告します。

まず、ブラジル国内には日系人が特に多く住んでいる地域というのがあります。 
代表的なのはサンパウロ州パラナ州です。
僕はそういったところをまだ旅していません。
人種別人口構成で日系人の比率が非常に低いところばかりを旅していますので、あくまでそういったところでの感想になります。

とある田舎街に滞在してた時の話です。
そこは豊かな自然に囲まれた風光明媚な場所で、
イタリア系移民の子孫が多く、日系人は住んでいません。日系人だけではなく、アジア系の人間もいません。
夜、一人で飲み屋に行きました。
場末感たっぷりの飲み屋です。
薄暗い店内を親父が一人で切り盛りし、古くて映りの悪くなった東芝のブラウン管テレビがサッカーの試合を流しています。

客はおっさんがほとんどですが、若者も少しいます。全員地元の連中で間違いないでしょう。

そこに僕が入って行ったわけです。

なんだ、こいつ?

まだ何も聞かれてませんが、そんな視線をひしひしと感じます。

これはこれは、アジア人とは珍しい。

そう思ってるんでしょう。
アジア人が飲みに来ること自体、初めてかもしれません。

最初に口火を切ったのは店の親父です。

お前、中国人か?日本人か?

日本人だよ、と答えると親父は急にテンションが上がり、日本てあーだよな、こーだよなと、その素朴な日本観を語ってくれました。
それを以下に箇条書きにしてみます。

1:日本社会は非常に秩序がある。
2:科学技術が発展している。
3:日本人は礼儀正しい。
4:日本人は頭が良い。
5:経済力が世界一位。

5は明らかに間違っていますし、4もどうだろ?って感じですよね。これは多分日本人は勤勉だ、というイメージが先にあって、だから頭が良い、となっているんでしょう。
他のはまあ、当たってると言えば当たってるのかなって感じですかね。
外国人が思う日本のイメージの典型と言ってもいいかもしれません。
初対面の日本人旅行者に披露するには、当たり障りのない日本人観とも言えそうです。
まあ、親父は店の主人ですからね。
客商売。気も使えます。

ですが、客となるとまた話は違うでしょう。
僕が生粋の日本人だと分かると、この珍客をもてなすべく、老いも若きも興味の色を全面に出しながら近づいてきました。
そして彼らなりのやり方で僕との友情を育もうとしてくれたわけですが、その際、やはり話のつかみは、日本てあーだよな、こーだよなということになります。
そこで示された、彼らの忌憚のない日本観を抜粋し、以下に箇条書きにしますのでご覧ください。

1:目が細い
2:ち○こ小さい
3:女は胸が小さい
4:働き過ぎで全く遊ばない
5:国の面積が小さい
6:家が小さい
7:自然災害が多い
8:犬を食う
9:サソリを食う
10:ジャッキーチェンすごい
以上です。

いかがでしょうか。

ちなみにこれ、けっこうバカにした感じで言ってきてます。
僕はもちろんむかつきました。
初対面ですからね。
一番ノリノリで言ってくるおっさんを本気で殴ろうと思いました。
が、しかし、それぞれの人間の顔を見ていると、ここで怒ったところで意味が無いような気になってきました。
どうもこれくらいの失礼さは許容範囲だと皆が思ってるようだったんです。
こりゃ、だいぶ感覚が違うのかもな…。
なんというか、ここまで感覚が違うとまともに怒る気にもならんです。

しかしねぇ、1、2、3あたりは身体のことですからね、そんなこと言っちゃいかんだろと思いましたし、8、9、10なんて何なんだ?って感じですよね。

犬は… 韓国とか中国のことと勘違いしてるんだろうなぁ。サソリも、多分中国では食べてたりするんでしょう。 ここで、仕方なしに日本ではそういう食材を食べる習慣はないことを説明しました。
韓国や中国にしたってみんなが食べてるわけじゃないよとも言いました。
それでもなかなか信じないんですよね。
後日分かったんですが、ユーチューブに、中国人だと思われる女性がサソリの串焼きを食べている動画があがってまして、ブラジル人はそれ見て大興奮してるんですよ。
中国人ヤベー!ってなってる。
で、中国人、韓国人、日本人はみんな一緒だと思ってる人が多いですから、当然日本人もサソリ食ってることにされてます。
僕的にはサソリだろうが犬だろうが、他国の食文化を卑下するのは、まず止めたほうがいいと思ってるので、日本人はサソリも犬も食べないよ、中国人とか韓国人は食べるからやばいよね!なんて話には間違っても持っていきたくないですし、そもそも他国の食文化を自国の価値観を基準にして一方的にバカにすることがいかに良くないことなのか、というのを、こんこんと1時間は説明してやりたかったんですが、そこまで説明できるポルトガル能力もないので、なかなか歯がゆい思いをしました。
あと、ジャッキーチェンは日本人ではないですね、
これはしっかりと伝わったようです。

自然災害のこと。
これは冗談みたいに言ったらいかんと思いますよね。
ここは露骨に笑ってくるんであれば、本気で怒らねばならないところだと思ったんですけど、幸い、そこまで心無いことは言われなかったので、怒らなくてすみました。

家が小さいってどれくらい小さいと思ってんのかなあと聞くと、もう一般的日本人の家は8畳くらいしかないことになってる。
アパートじゃなくて、一戸建てで。
すげー狭いところに肩寄せ合って生きてて、大変だよなぁと同情されました。
そんなことはないと、一般的な一戸建てはもっと広いし、2階建ての家も多いから、君達が思ってるよりもだいぶ広いよ、と説明してもなかなか納得しません。 
先入観というのは手強い相手です。
そもそもブラジルの家、平均的な大きさは日本のそれと比べてそんなに大きいとは思いません。
庭の面積を含めず、家そのものだけで比べたら日本と変わらないんじゃないの?いや、下手したら日本の方が大きいんじゃない?と思ったりもします。
庭だってみんなが持ってるわけじゃありませんしね。
しかし、この家が小さいというイメージは国土が狭いというイメージとセットになってるものなんですね。
とにかく日本の国土は狭くて、それなのに人口は多い。その結果、人々は小さい家しか持てず、窮屈に暮らしている、という理屈なわけです。
確かに国土に比して人口は多いのかもしれないなぁと思いつつ、だからと言ってそんなに小さい家しか持てないわけじゃないんだということは説明させていただきました。


※次回に続きます

ブラジルにて

今ブラジルに来てるんですよ。
もう来てから半年くらい経ちますけどね。
うろちょろ旅してるんです。
ブラジルに来るのは2回目。

日本の皆さんはブラジルに対してどんなイメージありますかね?
カーニバル。サッカー。人々陽気。治安悪い。
そんなところでしょうか。

ブラジルは地球の裏側。
距離的には最も遠い国の一つですから、普段意識することはないでしょうし、あまりよく知りませんよね。
僕も実際に訪れているとは言え、ただの旅行者ですからよくは知りません。
大きな国ですし、何年も住んだり、全域を巡ったりしないと、文化の深いところや全体像はなかなか掴めないでしょう。
ですから信用度の高いことはなかなか言えないんですが、せっかく旅してるので、僕なりにこの国に対する印象を綴っていきたいと思います。

例えば、先程のイメージで言うと…
サッカー。
これね、実はみんながサッカー好きなわけじゃない。
そんなの言われなくても分かるわって声が聞こえてきそうですが、構わず続けます。
サッカーに興味ない人けっこういます。
熱狂的なサッカーファンが思ったより少ないなって印象ですね。
まあ、地域によってだいぶ違いはありそうですけど。少なくとも全ての地域でサッカーに対して熱があるわけではなくて、あんま興味ない人間が多い街も沢山あるんだなって思いました。

あとね、サッカーそこそこ好きな人と話しますよね。
それで、話のつかみで、“ブラジルの選手知ってるぜ、ネイマールすげ〜よな!”と言っても、あまり喜ばれない確率が高い。
ブラジル代表の10番だし、バルセロナで活躍しているし、国民的英雄なんでしょ?、老若男女から愛されてるんでしょ?って思ってたんだけど、どうもそんな感じじゃないんです。
なんか、素行が悪いのか、生意気だと思われてるのか分からないけど、ネイマール好きってヤツに会ったことがない。
いや、もちろんネイマールファンがいないはずはないし、僕が会ったこと無いだけなんだとは思うけど、これだけ出くわさないってことは、その絶対数が知名度の割にだいぶ少ないのかなぁと思いましたね。
ちなみに、ジーコとかペレの名前出すと、ウケが良かったです。これは若い人と話しててもね、そうなんです。やっぱあれだけ大御所になると、悪く言う人はいないですし、みんなから愛されてるなぁって感じました。
そういう意味で言うとネイマール、まだまだ若くて、国民みんなから認められるようになるには早すぎるってことなのかもしれないですね。

そしてカーニバル。
これ、僕が滞在してた街でもやってましたけど、(カーニバルをやっているのはリオデジャネイロだけではない)僕が仲良くなった家族は見に行ってませんでした。
なんで?って聞くと、あんま興味無いし、人がいっぱいいるから嫌だと。三人姉妹で三人とも嫌いだと。
え!?って思いました。そんなブラジル人もいるの?って。
でも他にも、同じような理由でカーニバル行かない若者に何人か会いました。
とすると、これも考えてみれば当たり前なわけですが、ブラジル人とはいえ、みんながみんな、ノリノリでサンバに合わせて踊ったり、それを見て盛り上がったりしないってことなんですね。
中にはそういうノリが苦手な人もけっこういるんです。
もちろんカーニバル大好きな人が沢山いるのは間違いないですけど。

で、人々が陽気の件。
これは大体イメージ通りでしたね。
陰気な人や、堅物みたいな人も、いないわけじゃないけど、すごく少ないと思います。
一般的に、日本人と比べると誰とでも気軽に挨拶するし、初対面でも物怖じしない印象です。
全然知らないおじさんと道端ですれ違っても、目が合ったらにこやかに挨拶されたりします。
これはよくあることです。
所得格差が激しく、月収で1万円とか2万円くらいで生活してる人が沢山いる中で、
物価は日本とあまり変わらないくらいですから、金銭的苦労を感じている人はかなりいると思うんですが、社会の雰囲気からはそんなに悲壮感を感じないです。
ゴミ箱とか道に落ちてる空き缶集めて、それをリサイクル業者に売って生計立ててる家族とか時々見かけるんですが、多分、収入はかなり低いと思うんですよね。
この国でも収入が最も低い部類に入ると予想します。
それでも、家族で陽気に喋りながら、和気あいあい、楽しそうに缶集めてます。
家族が幸せの源なんですね。
うん、家族愛は非常に強いと思います。
家族、親戚といった血縁関係の繋がりが強くて、何かっていうと週末に集まって一緒に飯食ってます。
子供もパパママ大好きで、思春期でも親と距離取ったりしないんじゃないですかね。なんだか反抗期無さそうです。

治安はね~、悪いでしょうね。
田舎の村のお祭りに行った時の話ですけど、そこで発砲事件があって、撃たれた方は亡くなってしまいました。
原因は恋のもつれ。
若い男同士で一人の女を巡って揉めたあげく、恋に破れた方が腹いせに撃ってしまったようです。
都会の危険なエリアでは銃犯罪が多発してるってのは知ってましたけど、のどかな田舎であっても、銃犯罪は日本では考えられないくらい身近にあるようです。それだけ銃が手に入りやすいってことだと思います。 
今滞在している街はそんなに大きな街ではなく、比較的治安が良いと言われてるみたいですが、既に今年に入ってから銃犯罪による死者が20人程出たと聞きました。 
銀行強盗も起きてます。その様子は防犯カメラに捉えられ、ニュース番組で放送されたのを僕も見ました。
閉店後の銀行に覆面をした男数人が侵入。
各ATMを爆破し、中の金を奪っていくという、大胆かつ、あっと言う間の犯行でした。
結局、後日全員捕まったようですが。

更に、どうも全国的に警官の待遇が悪いらしく、時々ストライキが起こります。
これだけ治安が悪い中での警官のストライキですから、結果は火を見るよりかも明らかですね。
犯罪が多発します。 
ストライキが行われるとなると、あらかじめ危険を察知して、ほとんどの店は営業しないのですが、その閉められたシャッターをこじ開け、中の商品を略奪していく人がたくさんいます。
略奪だけではなく、銃犯罪も当然のように増えます。
今年の1月くらいにエスピリトサント州の州都で起きたストライキの際には、10日間程で100人以上の殺人事件が起きました。 

こんな感じで、比較的治安の良いと言われている街でさえ、日本に比べるとはるかに暴力犯罪が身近にあるわけなんですが、それでも普段街中(スラムなど、非常に危険なエリアを除いて)を歩いていて、殺伐とした空気を感じることはほとんどありません。なんとなく、暴力沙汰に巻き込まれる可能性をあまり感じないのです。
むしろ、日本の繁華街のほうがその可能性を感じる機会が多い気がします。
それはどうしてかと言うと、僕がバカだから… ではなく、まあそれもあるかもしれませんが、基本的にブラジル人の方が日本人よりおおらかな感じがするからだと思います。
例えば日本だと、下手したら肩が当たったくらいで舌打ちされたり、因縁つけられたりしますよね?(僕だけじゃないですよね?)つまり、日本はちょっとのことでイライラする人が多い。気がする…。
ブラジルではさすがに肩が当たったくらいで文句言われたりすることは想像しにくいです。
ですから、繁華街を歩いていて、異様に怒りの沸点が低い人に出くわし、不本意ながらその人の怒りスイッチを押してしまう、なんて可能性は日本の方がはるかに高いと感じます。
ただ、繰り返すようですが、何らかの犯罪に巻き込まれる可能性で言ったら、実際ははるかにブラジルの方が高いですよ。
そこは間違いないです。
しかもそれは死に直結しそうな犯罪です。
でもそこだけ知って、街中の雰囲気を想像すると、ちょっと現実と違うのかなぁと思ったんで、日本を引き合いに出してみました。
ある意味ブラジルの怖いところは、普段、街が見せる陽気でのどかな顔とは非常にギャップのある重大な事件が、いとも簡単に起こってしまうところなんだと思います。
予備知識無く、普通にブラジルの地方の街なんか歩いていたら、ほがらかな人ばかりで、こんなところで犯罪なんか起きようもないと感じるでしょう。
ところが、そんなところでも日本では考えられないような頻度で、殺しただの、殺されただのが行われている可能性があるわけです。

なんて怖いことばっかり言ってますが、僕は今のところ怖い目にあったことはありません。
ブラジル人の人懐っこい優しさにすごく助けられています。
次回は、ブラジルにおける日本人の印象を書いていこうと思います。