旅の空

とある好奇心の航跡

帰国時の日本の印象

ブラジルから帰ってきました。

ただいま~、パチパチパチ。

それでですね。

僕は過去に何度か海外をふらふら旅してたことがあるのですが、日本に帰って来る度にいつも感じることがあって、それが前から気になっていたんです。
そして今回のブラジルからの帰国時にも、ご多分にもれず、また同じことを感じました。
やはり気になったので、今日はそのことについてちょっと書いてみようかなと思います。

まず、それを感じるのは、海外から帰って来てすぐのことなんです。
すぐ、というのは、成田空港に着き、空港内を移動して電車に乗り、都内に向かう、その帰国してから1、2時間足らずの間です。
つまりそれは僕にとって、帰国した日本の第一印象とも言えるものなのです。

あれ、日本てこんな感じだったっけ?
そんな風に、それは違和感を伴いつつ、けっこうはっきりと感じられます。

では僕が一体何を感じているかと言いますと…

それは、人々の表情が乏しくて、なんだか感情があまり無さそう…

というものなんです。
それだけでなく、雰囲気が暗くも感じます。

で、これは自分の中ではけっこうびっくりしますし、ショックなんですよね。

海外にしばらくいて、いよいよ日本に帰る時というのは、わくわくしてますし、まあ色々楽しみなんですよ。
べつに海外が嫌になって帰国してくるわけじゃないんですけど、僕は日本人だし、日本ならではのインフラの整い方とか、食べ物とか、そういうものが待っていると思うと、やっと帰れる、という気分の高まりと、安堵感があるんです。
愛するホームなんです。

で、期待して帰ってきて、まず最初の印象が、
なんか暗い…、だと、やっぱりショックなんですよ。
都内に向かう電車の中で周りを見渡してみて、話しかけやすそうだなと思うのは、あろうことか外国人。
いきなり話しかけても気さくに話してくれそうな雰囲気があります。
一方、日本人には、なんか話しかけづらい雰囲気を感じます…。
話しかけてもとまどわれそうな気がする。
なんなら嫌がられそうな感じがする。
そんな感じがスゴいする。

つまり僕は日本人なのに、日本に帰ってきて、一番先に友達になれそうだと感じるのは外国人なんです。

おいみんなどうした? 
なんでそんなブスっとしてるんだ?
なんかあったのか? 
電車乗ってるだけだから、そりゃ何にも楽しくないのはわかるけどさ、もうちょっと、こう… あるだろ?

そんな、疑問とも訴えともつかない思いにかられます。

でも10分も乗ってればだんだん分かってきます。
多分これが普通の感じなんだ、と。
きっと、僕が海外に出る前からこうだったし、僕が忘れちゃってるだけなんだろう、すぐ慣れるさ、なんて考えます。

でもね。

それにしても雰囲気が暗い感じがするよな?
元気ないし、みんな辛いことを我慢してるみたいだよ?

すぐまたそんな思いが浮かんできて、そう簡単に割り切れなかったりするのです。
やはり、先の印象はなかなかに強いし、腑に落ちないんですよね。

僕は日本人て暗いな~、と思って、日本で暮らしてきたわけじゃないし、よくしゃべって明るい人もたくさんいるし、みんながみんな思い悩んで日常をおくっているとも思ったことはありません。
それなのにその記憶が、この、海外から帰ってきたばかりで感じる電車内の人々の雰囲気と合致しないんです。

こんなんだっけ?
別に海外に行ってたと言っても、せいぜい一年とかそこらですよ。
そんなに日本が変わってるはずがない。

と言うことはそうか。
やっぱり僕が気づかなかっただけで、前から日本人はこんな感じだったんだろう。
海外の人を見慣れてから比較してしまうと、このように無表情で暗く見えてしまうってことなのかな。
みんな暗いわけでも、感情が無いわけでもないんだろうけど… 

まあ、そう思いなおすわけなんです。

しかし、こんな風に見えるんだな…。
日本にいて、日本人に囲まれて生きてきた中では、そう意識させられたことも、考えたこともなかったわけですから、今こうして感じている日本人の印象というのは、明らかに、海外に滞在し、外国人を見慣れた目で日本人を眺めたことで生じたもののはずでした。

なんで?
なんで、無表情に見える?
なんで暗く見える?
もしかして本当に感情が乏しいのだろうか?
見かけだけでなく、本当に気分が暗かったりするのだろうか?

それらの疑問はいつも海外から帰国する度に浮かぶものではあったのですが、まともにそれに答えを出そうと思ったことはなく、いつの間にか忘れてしまうのが常でした。
しかし今回の帰国時は、その長年の疑問に自分なりに答えを出してみようと、初めてまともに考えを巡らせてみたのです。
それはおそらく、今回のブラジル滞在時に、日本人に対する偏見にさらされることが多く、その度にその偏見を訂正しようと僕なりに努力してきたからかもしれません。
ブラジル人には、日本人はあまり楽しむことをしない国民だと思われていたのです。
働いてばかりで酒も飲まず、寡黙で、遊ばない人々だと。
そうじゃないよ、と、日本人は確かによく働くけれども、休日には家族や友達と遊びに行くし、平日でも毎晩、歓楽街は賑わっているし、わいわいやっているよと、伝えてまいりました。
日本人はあなた達が思っているよりもよっぽど遊んでいるし、楽しんでいるよ、と、言い切ってきたんです。
そうして帰ってきたら、帰国一発目の電車内で、あれ?っと思ってしまったわけですね。
こりゃ、暗いと思われても仕方ないんじゃね~か、って。
まず自分がそう思ってしまったんですからね。
だから、どうしてこんな感じなんだろうって、半ば義務のように考えたわけなんです。


 最初は見た目、それも人種的な見た目に原因があるのかな、と考えました。
今回はブラジルから帰ってきたわけですが、基本的に向こうではアジア系以外の人と接する機会が多かったんです。
彼らは白人や黒人、あるいは様々な血の混じった混血だったりしましたが、その顔の作りは一般的に、アジア系、特に東アジアのモンゴロイド系人種に較べると彫りが深かったり、目鼻立ちがはっきりしてたりと、造形がより立体的だと言えると思います。
そんな彼らの表情は自ずとはっきりとして見え、それを見慣れて帰ってきた結果、日本人の表情が乏しく見えたのではないだろうかと思ったのです。
平均的な日本人の顔立ちは相対的にどことなく静かというか、感情の浮き沈みを感じさせづらいところがあると思ったわけですね。
これはまあ、間違っちゃいないでしょう。
一つの要因ではあると思います。
でも、全面的にそこで決着させられるかというと、そうじゃないな、とも思いました。
顔の造りは決定的な要因ではないはずなんです。
と言うのも、かつて、中国から帰って来た時も同じことを感じたからです。
中国は多民族国家ですが、僕は当時、主にモンゴロイド系、特に漢民族の人々と接してきましたし、彼らの顔の造りは僕にしてみれば日本人とほとんど違いが無いように見えます。
それでも、日本に帰って来た時、なんか日本人の表情が乏しい、暗い、と感じたんです。

顔の造りだけが原因じゃないとしたら、じゃあ、何が原因でそう見えるのかな…。

そんなことを思っていたら、ふと、この件に全く関係のないことに気をとられました。


この電車でどこまで行くんだっけ?


乗り込んだこの電車は、成田を出る最終でした。

僕が行きたいのは新宿。
ホテルが予約してあります。
成田で駅員さんに聞いたところ、
この電車は○○だから、乗り換えをしなくちゃいけなくて、それを間違えると新宿に行く電車が(時間的に)無くなってしまうよ!
ということでした。
途中の△△で乗り換えるんだよ! って言ってた気がするんだけど、どこだっけ?
忘れちった。
車内の路線図見ても、いまいち分からない。
あいにく調べようにも、手持ちのスマホは日本で使えるようにはまだなっていません。

どうすんべ。人に聞くか。

誰に聞こうかな、と周りを見ると、一番近いのは隣に座っている、20代前半と思しき女の子の二人組。
ここに聞くのが自然だろうと思いました。

すみません。

そう話しかけたんです。

すると女の子の反応がですね…。
まず、こっちをまともに見ようともしてくれません。
そして、うわっ…って、避けるような雰囲気を出してきたわけです。
まあ一瞬ですけどね、もう明らかにそう感じました。

何の用だ?
ナンパでもされるのか?
変なヤツじゃないか? 

いきなり車内で声かけられて、そんな思いが彼女の脳内を駆け巡ったのでしょうか。

こりゃマズい、と思い、間髪入れずに畳みかけました。

新宿に行きたいんですけど、この電車をどこで乗り換えていいのか分からないんです。海外から帰ってきたばかりで、自分のスマホがまだ使えないので、ちょっと調べてもらえませんか?
って。

すると、女の子は若干安心したような表情を浮かべた気がしたような、しないような。
そして、あ、はい…、と小声で言って、スマホをピピピっといじって検索結果を僕に教えてくれたのです。
いい人ですよ、間違いなく。
すいません、ありがとうございます、と僕が言うと、無言でうっすらと女の子は会釈をして、それで二人の会話は終わったわけですが…。

この時、僕はこう思わずにはいられませんでした。

やっぱ暗くないか…?。
なんか、お互いに悪いことしてるみたいな雰囲気だったよな…。

そりゃね、僕は男だし、いきなり女性が見知らぬ男に声かけられたら、一旦警戒するのは当然だと思います。
それに自分は、一見して女性受けがいい面構えでもございません。
これが、ジャニーズみたいな爽やかな面だったら、また女性の反応も違ったのかもしれません。
そこはごめんよ!マジでごめん。

でもね、僕が今まで行った海外で、この日本人の女性のような反応というのは、体験したことが無いんですよ。
例えば行ってきたばかりのブラジルで言えば、すみません、と声かければ、女性でも真っ直ぐにこちらを見返してきて、話を聞く態度を見せてきます。
初対面のアジア人相手ですから、多少警戒心は持っているはずですが、それでも笑顔さえ浮かべて対応してくれます。
警戒してまっせ!引いてまっせ!という感じは見せないわけです。
横文字使って言ってしまえば、フレンドリーかつハートフルなんですね。
フレンドリーはともかく、ハートフルって日本語で言うとなんだ?
心がこもってるとか情熱的みたいなことですかね。
この場合では情熱までは込めてませんから、とりあえずコミュニケーションに心がこもってるってとこです。
そうなんですよ。
初対面だろうが、真っ直ぐ相手を見つめて、笑みさえ浮かべて話す姿勢を見せる。
当然、そのやりとりはどこか明るいものです。
とりあえずブラジルではこんなコミュニケーションの取り方が普通だと僕は感じていました。
そういう意味ではとても話しやすいんですよ。
そういう意味ではね。

ところが、日本に帰ってきて、同じ日本人に話しかけてみたらどうです!?
すみません、の時点で、もう警戒。避ける。
そしてにこりともしません。
終始ほぼ無表情だったのです。
悪くはありませんよ!
あの女の子は親切でした。
彼女なりの精一杯の対応をしてくれたんだと思います。
僕に文句を言う筋合いがあるわけがありません。
ただ、コミュニケーションが取りづらいことや、会話に感情が全然のってないことにびっくりしたんです。


つまり僕はここで、初対面の日本人女子との会話を持ったことで、思いがけず最初の印象をより強くしてしまいました。

やはり勘違いではなかった。
見た感じの通り、話しても暗かった。

暗く見えたのはやはり、顔の造りの問題ではなかったんです。
実際に心を閉ざしているような、感情表現を抑えているようなところがあるのだと、そう感じました。
そしてそれは、僕が話した女の子だけではなく、おそらく車内の日本人のほとんどに当てはまることに思えました。
だってみんな同じような感じに見えましたからね。
もちろんそれは僕の勝手な思い込みである可能性はあるにせよ。

でも改めて周りを見渡してみて、こう思ってしまったんです。

期待できないな、って。
そして、期待もされてないなって。

何をか。

“情”の交換です。

愛情とか、友愛の情とかの、心が暖かくなるような情、です。
自分も相手に情を伝えるつもりがないし、相手から受け取るつもりもない。
人間同士の関係を非常にドライなものにとどめたい。
また、そうすべきだ。
そんな意識が共有されているように見えます。
その為に、見知らぬ者同士の距離感が遠い。
先の僕のように、いきなり話しかけ、その距離を一気に縮めにくる人は、暗黙のルールを破っていることになるので、当然警戒されるのでしょう。
もし車内にいる、海外から来たばかりのフレンドリーそうな外国人から、情の交換を期待する気持ちを抜いてしまい、またそうしなければいけないと信じ込ませれば、たちまち同乗している日本人達と同じ雰囲気を醸し出すようになるに違いありません。
情を交換するつもりが無く、またそうすべきじゃないのなら、感情を働かせる必要もなく、当然表情だって動かなくなっていくわけです。
そして、いきなり話しかけられたら、笑顔を浮かべて対応するどころか、警戒心を浮かべた表情で、必要最低限の言葉をもって、なるべく早くその場を終わらそうとするようになるでしょう。

 

しかし、なんで情の交換を避けるのかな?


そこにはそれなりの理由が必要だと思いました。
だって、初対面だろうが、会話は暖かい方がお互いに気持ちいいですからね。
つまり、もっと感情をやりとりする方が自然だと思うんです。
こんな風に、互いを警戒してるかのような距離感があったり、無感情の会話をするからには、そうせざるを得ない理由が必要に思えました。

お互いに信用してないのかな?

いや、でもそんなことがあり得る??

日本は世界の中でもかなり安全な部類の国ですよ。
外をびくびくして歩かなくてはいけない国では全くありません。
よく言われるように、女性が夜中に一人で歩いていても、基本的に大丈夫と言える国なんです。
それにほとんど単一民族で構成され、かなり均質な文化を持っています。
つまり日本人同士であれば、ほとんどの場合、同じような社会通念と習慣、文化をベースに持っていると想定していいわけですし、また無意識にそう思って、多くの人が暮らしているはずです。
その意味で、人種、民族、宗教、文化が異なる人々がダイナミックに混在している多民族国家とは事情が全く違います。
隣に座っている人や、目の前に立っている人が、異なる生活習慣を持っていたり、人種が違ったりするかもしれないということを、日本人はあまり想定しないで普段生きているわけです。
そしてそういった均質的な環境の中で、日本人は、普段は意識しなかったとしても、一定の安心感を持って生きているはずではないでしょうか。
さらに、日本人は礼儀正しく、約束を守り、公共のルールもよく守る、というのは世界的に知られている日本のイメージであり、日本人自身もそう思っているところのはずです。
であればですよ…
お互いに信用できる要素ばかりじゃないですか?
少なくとも、日本人のお互いに対する信用が、他国のそれと比べて少ないとは思えません。
むしろある方だと言っていいはずです。
でもそうだとすると、互いの感情のやりとりを避けていそうなことや、距離感が遠いことは不自然です。
普通に考えて、信用できる相手とはコミュニケーションがとりやすいですし、距離感も近いはずですからね。
つまり不思議なことに、日本人はお互いに危害を加えない相手としてとか、文化的摩擦を生まない相手としての信用は、他国と比べてある方だと思えるのに、それが互いの感情表現のし易さだったり、距離感の近さにつながっていないように見えるわけです。

これは矛盾したことのように思えます。


しかし、現実が矛盾するはずもないですわね。


とすれば…。

ほとんど単一の民族で構成された均質的な文化、礼儀正しく、約束を守り、公共良俗を重んじる、そんな日本人の特徴と、この車内の重い雰囲気や、初対面の者同士の情の通わないやりとりは、実は全く矛盾しないもの、なのかもしれません。
多民族国家で、治安が日本よりもはるかに悪いブラジルで、初対面の人間同士が日本よりはるかにフレンドリーに話せるという現実にも、なんら矛盾はないのかもしれません。


しかし、どのように考えれば矛盾がないと言えるのか?


それを説明する上で真っ先に重要に思えたのが、一般に通用する礼儀、です。
言うまでもなく、礼儀は良好な人間関係を作り、維持し、集団に秩序をもたらす為に必要不可欠な、暗黙のルールですわね。
どこの社会に行ったって、その社会特有の礼儀が存在することでしょう。
それに、その社会の持つ性格のようなものが、その社会で一般的に通用する礼儀には集約されているし、逆に礼儀を土台にその社会の性格が作られていく面もある、と思います。
さらに言えば、その社会が目指す理想が、その社会の持つ礼儀には示されていたりするとも思うんです。

日本の礼儀。
それは人間間の序列を非常に気にするもの、と言えないでしょうか。
その序列は年齢であったり、社会的立場であったり、その他の様々な人間関係上生じるものであったりするでしょう。
さらに日本の礼儀は、敬う、という精神性を非常に重視したものでもあります。
 従って日本では、相手を敬い、相手の前で失礼がないように自分を律し、時にかしこまることが良しとされ、その暗黙の法が下地になった上に、あるいはそれを理想と掲げたその下に、あらゆるコミュニケーションが築かれている気がします。
その法でいけば、相手に直接的な感情を放つことが、すでに失礼にあたりかねません。
もちろん、普段のコミュニケーションの中で、すごくかしこまったり、情を含まない儀礼的な対話しかしていないわけじゃないんですけど、おそらくは、敬う、ということを対人関係上の価値の最上位に置いているであろう日本人のコミュニケーションは、どこか自分の感情を抑制し、儀礼的な色彩を帯びる傾向があるんではないでしょうか。
どんな感情であれ、(それが例え友愛の情であれ)、自分が抱いたそれは、身勝手なものかもしれないのですから。
だとしたらそれを素直に表現することは相手に対して敬意を失していることになる。
それこそ日本人が基本的に避けたい事態であって、結果、敬うという以外の感情表現を自粛し、相手に失礼がないようにするという方向に行きやすいのではないでしょうか。
日本人にとって、お互いは、丁重に扱うべき存在、というわけです。
 
 では、ブラジルではどうでしょう。
例えば初対面の人間同士のあいさつは、
初めまして!とか、元気!?とか、調子どう!?とか言って、にこやかに握手したり、肩を抱き合ったり、ほっぺたにチューしたりします。
これには年齢の上下も関係ありません。
僕も、自分よりも一回りも年齢が下のブラジル人に、こんな感じで挨拶されてましたし、自分もそうするように心がけていました。(なかなか馴れませんでしたが…)
挨拶ばかりではありません。
通常の会話も、基本的に年齢に関係なく対等な感じです。
さらに年齢差だけではなく、社会的立場とかを含めても、対等なコミュニケーションを阻む要素は、あまり無さそうでした。
敬語みたいなものが使われているのも聞いたことがないですしね。
もちろん、ブラジル人も目上の人とかに気を使ったり、尊敬の念を示すことはあります。
が、平均すれば日本人に比べて、はるかに対等な感じで、お互いが接しているように見えます。

で、そういう対等なコミュニケーションの取り方が習慣として根付いていますし、これがつまりブラジルにおける礼儀と言ってもいいと思います。
しかし、ただ対等に話すというのではなく、そこに友愛の情が込められていることが大事で、それこそブラジル人のコミュニケーション上の礼儀の中で、最上位に位置づけられるものだと思います。
いくら形は丁寧に挨拶しようが、友愛の情が込められていなければ、それは失礼なのです。
つまり、積極的に、あなたに会えてうれしいとか、あなたと話せてうれしい、という感情を伝えること、それが大事なんですね。

 というわけで、ここで日本とブラジルを、一般人レベルの礼儀で簡単に比較してしまえば、日本では人間関係上の序列が意識され、敬意が最重要視されるのに対し、ブラジルでは対等な人間関係が意識され、友愛の情が最重要視されると言っていいのかなと、僕は思いました。

 そしてブラジルではこんな光景も目にしました。
大の大人が複数の他人がいる前で涙を流して、嗚咽までもらして、泣いているのです。
聞けば、身内に重大なトラブルがあったとのことでした。
そして、彼とまるで関係のない周囲の人々は、そうした彼の、公の場におけるあけすけな感情表現を、さも当然のように受け止め、話しかけ、慰めていたのです。
そんな光景を一年ほどの間に幾度か目撃しました。
 ブラジルではあらゆる感情が割とオープンに、人前でさらけ出されている好例と言えるでしょう。
自分の感情をなるべく抑えないで、表に出す。
そして他人がそうすることに対しても寛容。
それがブラジル人の気質であり、ブラジル社会の性格でもあり、また、礼儀に落とし込まれているものでもある、と思います。
 一方、日本ではその逆、と言ってもいいでしょうかね。ネガティブな感情どころか、ポジティブな感情でさえ表に出さないことが、奥ゆかしさとして良しとされることすらあるお国柄です。
自分を律し、感情表現を抑制しがち。
そして、それを他人にも求める。
それが日本人の気質、日本社会の性格、そして礼儀に落とし込まれているもの、と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 
 そうするとこのあたりで、先ほど矛盾に見えたことも、少しそうでなく見えてきた気がします。
つまり日本人は敬意を人間関係上、最重要かつ必須なものとして捉え、それを元にコミュニケーションをし、その延長上に日本の社会秩序もある。
その中で個人は、敬意以外の、あらゆる直接的で“感情的”な表現を、相手への気遣いと社会秩序の為に自粛する傾向があり、その感覚、その常識を共有する者として、一定の信頼を互いに置いている。
それが、初対面の人間同士が集まる公共の場においては如実に反映され、互いの距離間と、気軽なコミュケーションの難しさに現れているというわけです。
こうして考えれば、僕が帰国した直後に電車という公の場において感じた重苦しさとか、人々に感情の動きが無さそうに見えたことも、多少は説明できます。
やはり、みんな知らず知らずに、自分の感情を抑え、檻の中に入れているところがあるんではないでしょうか。

ここで、ふと、その影響が出てるんじゃないかなあ、という例が思い浮かびました。
ほら、皆さんは、困っている人が急に目の前に現れた時、すぐ助けるべきところを躊躇してしまい、行動に移すことが出来なかったり、遅れたりして、後で自己嫌悪に陥る、なんてこと経験したことありませんかね。
優しくないわけじゃない、人に親切にしたい気持ちも持っている、それなのにそれを実行できる機会がいざ自分に訪れた時、なぜか躊躇してしまう。
公の場で、多くの人がいればいるほどそうかもしれませんよね。
僕は何度かそういう経験があります。
なんでか?
たぶんこれなんかも、公の場において、知らず知らずのうちに、感情を檻の中に入れて、生身の自分というよりは、公(おおやけ)仕様の儀礼的な自分になっている為に、いざ血の通った感情の発露が必要になった時に、反応が遅れる、ということなんじゃないかな、と思うんです。
自分を檻から出して、自由にさせてやるまでのタイムラグがあるわけです。
失礼になってはいけないという、鉄のルールで出来た檻が、自分を押しとどめる要因になっているんですね。
だからなんでしょう。
情けない話ですが、自分の場合、海外にいる時の方が、ごく自然に躊躇無く人助けが出来ています。
海外での方が、自分を躊躇させるものを感じないんです。
この例は、他人に失礼があってはいけないという意識が個人の感情の動きを抑制するために、それが逆に他人の為には裏目に出てしまうという、極めて日本的な皮肉、と言えないでしょうか。


 そして日本社会の治安や公序良俗が安定して、信頼感があるのに対して、ブラジルでそうでない理由も、その一端くらいはこの流れで説明できそうですね。

日本では人を敬い、公の平穏の為に自分の感情を抑え、時に犠牲にすることすらが美徳としてあり、実際ちゃんと実行できているかは別としても、少なくとも一般の人の意識の中に、それが理想として根付いている傾向があるのに対して、ブラジルでは人を敬う、という感覚は薄く、互いに対等な関係を望み、自身の感情の奔放を許し、我慢はあまりせず、他人にもそれを求めない、という傾向があり、その結果、公序良俗という面では、あまりかんばしくなかったりするわけです。
もちろん、社会全体の秩序のことを説明しようとするのであれば、他にもたくさんの要素がからんでくるので、それだけでは説明仕切れないんですけど、ただ、それが部分的な要因であるというのは、僕には確かなように思われます。
 物事が大体においてそうであるように、日本でもブラジルでも、その持っている気質や礼儀は、良い結果ばかりでなく、そうでないものも産み出していると思えます。

さて、ここで、僕の好みを言わせてもらうなら、
日本とブラジルの礼儀やコミュニケーションの在り方を比べた時、断然日本のそれの方が好きです。

は!?

いやいやいや、あんた散々日本のことを暗いだの、コミュニケーションが取りづらいだの言ってたじゃないかと、だったらブラジルの方がよっぽどあんたの好みに合ってるんじゃないかと、ブラジル行けやと、そう思われる方も当然いらっしゃることでしょう。

ごもっともですね。

僕が帰国した時に感じた印象は素直なもので、取り消すつもりはさらさらありません。
それでもなんで日本の礼儀やコミュニケーションの在り方の方が好きなのか。
結論から言ってしまえば、まあ、日本で育ったからでしょうね。
日本的な美意識に共感してしまうのです。
日本人の対人関係の肝は敬意ではないかと僕は書きました。
人を敬うことは、自らの謙虚さ、慎み深さにもつながりますし、それらは日本的美意識の重要な部分を担っているものだと思います。
それらが僕にはとても、美しいものに感じられるのです。
ブラジルでもそうでしたが、海外に行くと、そういった美意識という意味では、物足りないなというか、違うな、と感じます。
平たく言えば、もっと分かりやすく、派手なものを求めている国が多い気がしますし、そこでは、日本的なというか、慎み深い美というのは、あまり理解されなさそうな気がします。
それは僕には寂しく感じられます。
別にどっちがいいとかは言えませんけどね。
僕は日本的な感じの方が好きなんです。
だからと言って、電車内が重苦しい雰囲気の方がいいとも思いませんし、初対面の人間同士は堅苦しい会話をした方がいいとも思わないんですね。
つまり、日本人がお互いに敬意をもって接することは素晴らしいことだとは思うのですが、愛情表現をそこまで抑える必要もないと思うわけです。
愛情とか友愛の情とかを伝えることは、それ自体素晴らしいことで、これに反対する人はあまりいないと思いますしね。
で、ですね、先ほどまで、僕が帰国直後の電車内でとまどいを感じた重苦しい雰囲気の説明を、この国の礼儀や、習慣に求めてきましたが、それだけで全部を説明できたとはまだ思えていません。
それだけではあのような雰囲気にならないような気がするんです。

僕はさらにこう思ったんです。

失礼があってはいけない、という思いが脅迫観念のようになっては、自分の心は萎縮してしまうし、敬意を払うことを相手に強要しては、相手の心は萎縮してしまうだろうと。
敬意を失した表現や行動をした相手を叩くことが当然と思う人が多くなってしまえば、互いに相手が無礼をする瞬間を見計らい、そこを攻撃しようと待ちかまえるような、ギスギスとした緊張感のある社会になってしまうだろうと。
それは目指している社会ではないはずです。
しかし、僕が帰国して感じた、人々の雰囲気の重苦しさや暗さというのは、その目指したはずではない社会に、少しなってしまっているんじゃないかと、そう思わせるものでした。
確かに、敬意を重視する対人作法は、ストレートな愛情表現を阻むものにはなりうるでしょうが、それだけではこのような雰囲気なりそうもないんですよ。
やはり、お互いに警戒してる部分があるんだと感じられたんです。  
しかし、それは先に書いた通り、身に危険を及ぼすような危害を与えてくるような相手としてや、文化的摩擦を産む相手としての警戒ではありません。
無礼を叱責されるかもしれない相手として、あるいは暖かい情の交換を拒まれるかもしれない相手として、いや、ともすれば暖かい情の交換をしようとすることを失礼と捉えかねない相手としての警戒です。

電車内の人々から受ける感情が萎縮しているような印象が、事実を捉えているのだとしたら、その萎縮の背後には、そういった警戒心、あるいはあきらめがあるように思えました。

おそらく、敬意をお互いに自然に抱ける社会というのは、理想ではあるけれど、実際すごく難しい目標なのです。
もし互いに、自然に敬意を抱けるような社会が実現できたとすれば、そこには暖かい空気が流れていることでしょう。
でも、現状はどうやらそこから程遠い感じです。
ならば、互いに自然な敬意を抱けるようになるまでは、とりあえず、僕らはお互いに未熟な人間同士、互いにそれを認め、寛容になる必要があるはずです。

でも、今の日本社会には、その寛容さがきっと少ない。

海外にいても、今やネットで日本のニュースは簡単に見れますから、チェックはしていました。
芸能人が浮気したとかで、その当人がボッコボッコに言われてるのとか見ると、すげーな、と思いましたよね。
これなんか、叩く側が、叩いてもいい大義名分として、社会に対して失礼だろ!というのを掲げているような気がしました。
だからこそ、直接関係のない人々が叩きにいけるんでしょう。
直接関係なくたって、社会を構成する一員としては、立派に攻撃する理由がある、と言えるんですからね。
他にも、職場でのセクハラ、パワハラ長時間労働なんかを苦にして亡くなった方もいましたね。
けっこうそういう被害に遭っている方は多いのかもしれません。
これなんかも、社会秩序や集団の為に、自分の感情を抑えがちな日本人の美徳と、それを互いに強要する悪徳が不幸な相乗効果を生み出したものと言えないでしょうか。
引いて見てみれば、個人の権利は法で守られているのにも関わらず、それを実際には行使できず、死ぬまで追いつめられていくんです。
そこまで当人を追い込むことが可能なのは、会社に貢献することこそが至高の善であると、上司の命令に従うことは多少理不尽でも絶対であると、そしてそれが出来ないということは非常に礼を失したことで、即ち人間として無価値なのだと信じさせ、心理的に逃げ道を封じることがこの国では容易だからではないでしょうか。
そうした上で、序列を利用して様々なことを強要し、肉体的、精神的ダメージを与えることを正当化し、その状態を継続することが簡単に出来てしまうのでしょう。
単に仕事が出来ないのであれば不当なダメージを与えることなく辞めさせればいいわけです。
しかしそうはせず、仕事が出来る出来ないとは実は関係なく、都合の良いように利用するだけ利用して痛ぶるわけですから、悪質ですし、日本人の性質を知り尽くした日本人らしい蛮行だと言えると思います。

労働環境以外の理由も多いんでしょうが、日本の年間の自殺者は減ってきているとは言え、未だ多いようです。
そのうちの何割かは知りませんが、日本社会の不寛容さが原因となった死者が大勢いるような気がしてなりません。

つまりは今、目に見えない不寛容という圧が、個々の日本人を上から圧してるんではないでしょうか。
そして個々の日本人がその圧を生み出してもいるんではないでしょうか。
僕が帰国した直後の電車内で目撃した日本人達は、そんな圧の下にいたのではないでしょうか。

本来は美徳であるはずの、敬意を重視し、公の為に自らを律する礼や習慣が、それを運用する我々日本人に愛が伴わない時、度が過ぎ、恐ろしく息苦しい状態を生み出しうるということだと思います。
いや実は、単に他人を攻撃したいという気持ちの、隠れ蓑や言い訳として、礼や習慣が使われているだけなのかもしれません。
そしてそんなことが至るところで行われている、そんな状態に今の日本はなっているのかもしれません。
その結果として、みんな、心を檻の中に入れて、閉ざし気味になってしまっている。
怖いですからね。
不寛容で怒りやすいお互いのことが。
とりあえずルールを守って、距離を保ってやっておけば、危険は最小限だな、と。
事なかれ主義になってしまっている。
そりゃ、冷たい雰囲気にもなりますよ。

僕は帰国するときにそんなことを想像することも、意識することもなく帰ってきました。
海外で日本のニュースを見たところで、その時は、へ~って思いますけど、帰国時のウキウキ気分の中では忘れていますからね。
ところが、最初に乗った電車の中で、何か押さえつけられているような、互いを警戒するような日本人の雰囲気を感じ、ショックを受けました。
まあ、そこで、ネットで見たニュースやなんかが思い出されてきたわけなんです。

でね、もし僕があの電車内で感じたような雰囲気を、今の日本社会全体が纏っているんだとしたらですよ、まあ、そうじゃないかと予想するんですけども、それって寂しいことじゃないですか。

ブラジルではよくこんなことを言われました。

お前の国では、働きすぎて死ぬやつがいるんだろ?ありえね~(笑)

それには反論できませんでした。
でも仕事もなく、それを不景気のせいにして、昼間から酒を飲んでいるような人間に言われるのも納得いかなかったですよ。
けれど、彼らなら、会社や上司に服従して、働きすぎて死ぬこともないんだろうとも思ったのも事実です。
彼らは個人の感情的自由を、謳歌していました。
それを日本人並に抑制することなど、そんな状況に身を置くことなど、考えられないでしょう。

だから彼らは、働きすぎて死ぬなんて、ただの哀れなやつだと思うのでしょう。
日本人でもそう思う人はいました。
でも、そう簡単に言ってしまえることだろうか。
日本人なら、死ぬところまでいかなくても、多かれ少なかれ、集団の為、公の為に我慢し、感情に抑制を効かせているところがあるじゃないか。

一体、それは何のためか?
そこに何の意味もないのと言えるのか?

例え仕事がなくても、家族といて、昼間から酒も飲めて、ストレスもなさそうなブラジル人と、仕事に忙殺され、
従順すぎて、社会や会社に殺されかねない日本人。
そこだけ見比べてみれば、ブラジル人のほうが幸せそうに見えるのかもしれませんが、それでも僕は、日本人が好きだし、もし生まれ変わっても日本に生まれたいと思うんです。
感情を押さえ込んだような顔で電車に揺られる日本人の方が好きなんです。
それはきっと、僕が日本人だから、というのが大きいんでしょうが、それだけでなく、日本人が高い目標を掲げているように思えるからです。
日本人が目指す社会の形があると思うし、きっとそれはとても美しいものだと思うからです。
でも、度々になりますが、その社会は決して今のようなものではないとも思います。
日本人が集団的に、集団の意識として、というんでしょうかね、そんな風にして抱いている社会の理想型みたいなものがあるとして、それはきっと、自分を律し時に抑え、集団の為、公の為に身を粉にして働くことを厭わず、自らをその方向で昇華させることができる、そんな精神性を持った日本人だからこそたどり着けるものなのではないかと思います。
しかしもちろん、そこに至る過程で誰も犠牲を強要されることはあってはならないでしょう。

だから別に海外を見習った方がいいだなんて思いません。
ただ、日本人である僕達が目指す社会はどういうものなのかは、もっと考えて、もっと自分達自身に問うて、社会全体で微調整していけたらいいと思うんです。
みんな我慢してるだけじゃどこにも辿りつけませんもんね。
もし日本人が、その集団的で潜在的な美意識なり理想を実現出来たとしたら、集団的な幸せの度合いも、個人的な幸せの度合いも、更新されるだろうと思います。
そしてそれは高度な目標だし、そこに至る道のりはなかなかに難しいものなんでしょう。
でも、どういうわけか日本人は難しいところを目指して発進してしまったのだし、それが実現出来る国民だとも、僕はなぜか信じています。
客観的な根拠は無いんですがね。
ただ、何カ国かを旅してみて、日本人はやはり繊細で特殊な感覚を持っていると感じたのが、自分なりの根拠なんです。
僕らがおぼろげながら抱いている理想を、僕らがはっきりと自覚できるのはいつになるのか、その理想を実現でいるのがいつになるのか、わかるはずもありませんが、そこに至るまで手を取り合って、互いにもっと寛容になって進んでいけたら素敵だな、なんて思います。

そんなことをつらつらと考えていると、時間はあっという間で、電車は新宿に着いてしまいました。

久しぶりの東京。
新宿。
目に飛び込んできた光景は圧倒的でした。
南半球最大の都市であるサンパウロが、遠く霞んで思えてしまう程の偉容。
深夜12時をまわって尚、視界を埋め尽くす光。
道を埋め尽くす人。
ブラジルの都市とは比べものにならないほどのエネルギーを感じます。
先ほど暗く感じた電車内とは打って変わった世界です。
しかし、確かにすさまじいけれども、その原動力を一つ上げるならば、それは真っ先に欲望でしょう。
ぬくもりをもたらす愛は、この空間を支配する原理ではなありません。
でも間違いなく面白い。
常に傍観者に過ぎない旅人を喜ばせるには申し分ありません。

帰ってきたんだな…。
母国日本。

その首都たる東京はとんでもない。
こんなすごかったんだ。
これで不景気とか言われても、とても信じる気にはなれません。

でも、ああ、気になるんだよな。
これだけの偉容を維持する為にどれだけの人の労力が必要だろうか。
その為にどれだけの人が堪え忍んでいるだろうか。
この大都会がどれだけの人を幸せにしているだろうか。
道行く酔っぱらい達は、一時の享楽に浸っているようには
見えるけれど、どれだけの人が、心の奥深くからの喜び、あるいは平安に浸れているのだろうか。
実際のところは知る由もありません。
ただ、この光景を見た時に素直に感じるものは、一過性の、瞬発的な享楽、欲望です。
ここはそれをひたすら生み出すことのために存在するかのような街なのです。
その意味において、とても魅力的な街です。
でも、その下で、そんな享楽を生み出すことのために、誰かの欲望を満たすことのために、自分の全てを差し出すような労力を提供し、消費される人間がいるとしたら、自分はそうはなりたくないし、その人達にはそこから逃れて欲しいと思いました。
まあ、思うだけなんですがね。

ふと見ると、一人のサラリーマンが道端に転がっていました。
しっかりスーツを着ていながら、ゲロを吐いて、突っ伏しています。
すげ~な。
これこそ、公共の平和が高度に保たれながら、それでいて抑圧的な日本を象徴する光景なのかもしれません。
まずブラジルの人間はこんな真似は出来ないし、やらないでしょう。


旅から帰ってきたかと思いきや、依然として旅が続いているような気分でした。
ブラジルより余程、日本の方が不思議な場所に思えたんです。
何というか、複雑なのですよ、この国は。
多民族国家であり、広大な国土を持つブラジルより、余程理解が難しく、奥行きがあるように感じられるのです。

これからは日本をもっとよく見ていこう。
そんな風に思いました。

ブラジルにて ③ ~日本人の印象②完結編~

前回の続きです。
http://akitsuyoshino.hatenablog.com/entry/2017/05/14/070032

日本の家は小さい。日本の国土は小さい。

こんな風に飲み屋のおっさん達から言われたわけですが、家の大きさについては前回反撃をしました。

次は国土ですが…。
この時は反撃できませんでした。
何と言ってもブラジルの国土は日本の23倍。
世界5位を誇っているのです。
ブラジル人が日本を小さいと思うのは当然なのでしょう。
だから、単なる事実として受け止めても良かったんですが…。
ただ、引っかかる感じがあったんです。
というのは、彼らのイメージする日本の大きさが、実際の大きさよりはるかに小さいように思えたからなんです。
あんな小さいところにどうやって住めるんだ?
ぐらいの感じで言ってくるわけですよ。
そこに人口が多いイメージが加わることで、彼らが思い浮かべる日本というのは、国土全体にビッシリとミニチュアみたいな家が密集し、余ったスペースなんてほとんど無い、という事態になってるようだったんです。
そこまで極端に国土が狭いわけではないことはなんとか説明できたと思うんですが、じゃあどのくらいの広さなのか、というのは上手く伝えられなかった。
国土の大きさを示す具体的な数字は覚えてなかったんです。
ただ、僕個人としては日本の国土を狭いと体感したことはありませんからね、その感じを伝えたかったんですけど…。
やはり言葉の壁は大きくてですね。
それで簡単に、

僕は日本を狭いと思わないよ〜

なんて言ったら、ウッソだ〜ってめっちゃ言われました。すげ〜小さいじゃんって。
クソ…!
僕の中で、もういいや!ってなりました。

次に日本人は働きすぎてて、全く遊ばない、の件です。
僕そんな詳しくないですけどね、日本人は働きすぎだって日本国内でも問題視されてるのは知ってましたから、そこは否定しませんよ。
でもね、全く遊ばないって何なんだよ!って思いましたよね。
飲み屋のおっさんはこう言ってくるわけです。

日本人は朝から晩まで働きまくって、帰って寝るだけだろ?一日16時間働くんだろ?

って。
いくらなんでもみんながみんな、帰って寝るだけの生活してないし、日に16時間も働くわけないじゃない。
そりゃそういう生活してる人もいるでしょう。
僕もそれに近い生活してる時ありました。
でもそんなの、会社とか仕事によるじゃないですか。

それ言いました。
会社とか仕事によるよって。
そしたらおっさんは、

ウッソだ〜!ニュースでやってたぞ!みんなそんな生活してるって言ってたぞ!

って言うんですわ。
もうね、どこのニュースだよ。連れてこい、そいつ! って言いたくなりましたよね。
まあ、言葉の問題で、実際に言ったのは以下の言葉です。

みんなじゃね〜よ。みんな16時間も毎日働いてたらみんな死んじまうじゃね〜か!

おっさんは、そりゃそうだな…みたいな顔を一瞬しましたが、まだ納得はしてないようで、
でもなぁ…ニュースで言ってたもんなぁ、と食い下がるんですわ。
しつこいなぁと思いつつ、ビールを飲んでいると、

日本人ってアルコール飲まないんだろ?

と聞いてきたんですよ。
は!?お前の目の前で飲んでるのは誰なんだよ!
って言おうかと思いましたが、そこはグッと堪え、
 
飲むよ。

とだけ、言いました。
へ〜〜って顔してましたね。
どんだけクソ真面目な国民だと思われてるのか…。これはちょっと想像を超えてるなって思いました。
僕の周りの日本人なんて飲む人ばっかりだし、何なら毎日飲んでますからね。
そんな人世の中ザラにいるわけじゃないですか。
どうやらここのブラジル人達は、そんな呑兵衛の日本人がいるとは思いもしなかったようなんです。
女の子だって飲むよ。と言うと、ウソだろ!?
って感じで、もう彼らの日本人像というのは根底から覆されたかのようなリアクションなんですよ。
しかし、そうはさせじと彼らは抵抗するわけですが…。
なんで抵抗するんだよ!って思いますよね。
日本人がそう言ってるんだから素直に信じてくれよって。
ともかく、ここのおっさん達には、土日には家族で色んな観光地に出かけたり、友達同士で飲みに行ったり、遊び行ったりする、そういう日本人のイメージが無いみたいでした。
多分おっさんの主たる情報源はテレビでしょうから、テレビがそういう偏った情報を流してるのかもしれないですね。 
しかし、そうだとしても見る側の理解の仕方にも疑問があります。
流石に、日本人の一日の平均労働時間が16時間だ、なんていう明らかな誤報をニュースが流すわけありません。
このおっさんの場合、自分が既に持っていた日本人のイメージに寄った形でニュースの情報を誤って理解してしまったんだと僕は予想します。
と言うのも、実はこの後、この田舎街から何千キロも離れた場所で、そのようなことが起こる現場を見てしまったのです。

それは年始のニュース番組でした。
世界の色んな国の年末年始のイベント事を紹介していたのですが、その中で日本の餅つきの様子も紹介されてたんです。
そしてご丁寧にも、毎年餅を詰まらせて亡くなる老人がある、という情報まで言い添えてありました。
それを見た、あるブラジル人のおっさんは、口をあんぐり開けて興味深そうにしていました。
そして後日。
僕の目の前で、そのおっさんは別のブラジル人に、日本人は米を炊いて、ブラジル人のように食べたりはしない!(ブラジル人は米が主食で、炊いて食べます)炊いた後、ベッタンベッタン木で打っ叩いて、ネバネバにしてから食べるんだ!そしてそれを詰まらせて死ぬんだ!と言っていたのです。

おい、ちょっと待てと。

ここに自分がいて良かったと思いましたよ。
日本人は基本的に米を炊いてそのまま食うし、餅はいつも食うもんじゃない。食って死ぬ人も確かにいるけど、そんなに危ないもんじゃないよ、と説明させて頂きました。

つまりですね、このブラジル人のおっさんは、正月の餅つきを日本人の日常的行為だと拡大解釈した。
そしてそこには、日本人は変わった習慣、理解に苦しむ習慣を持つ人達であって欲しいという、願望の力添えがあったように思えました。
たった1分の映像と、彼の元々持っている日本観が反応して、新たにヘンテコな日本観が作られた…。
この時はテレビでしたが、これがテレビではなく、ユーチューブだったとしても同じことが起こることは容易に想像がつきますね。
いや、ユーチューブでの方が、よりそのようなことが起こりやすいかもしれません。
何しろ、放送されるものをただ受け身で見るのではなく、自分の好みと傾向に合う動画を積極的に選んで見ることができるわけですから。
ますます自分の固定概念を強化してしまう可能性が十分にあります。
前回も紹介しましたが、サソリの串焼きを食べる中国人の動画を見て、中国人、日本人、韓国人はみなサソリを食うと思ってしまう、というのはその典型例ではないしょうか。
ちなみにこのサソリの件は、今回ブラジルに滞在した中で、何度も言われました。
で、その度に僕は、この映像は日本でも韓国でもなく、中国のものであると。しかも、中国人がみんなサソリを食べるわけではなく、一部の人が時々食べたりする程度なんじゃないか、と説明するのですが、なかなか信じてくれません。
まず、中国や韓国や日本が違う文化を持ってるということを覚えるのが面倒臭そうです。
見た目同じだから全部同じだと思ってるし(実際よく言われます)、その先入観を変えることに、まるで嫌な勉強をするような抵抗があるようです。
中国や韓国や日本はヤバい!って思ってたほうが分かりやすい上に面白い。
それが現実は違うということになると、分かりにくい上に、小バカにできるネタが一つなくなるので面白くない、そんな風に見えました。

今回のブラジル滞在中に、僕が幾度も聞かされた日本の印象は、このサソリの件だけではありません。
ここでもう一度、前回のブログに書いた、僕が飲み屋で聞かされた日本の印象をおさらいしてみましょう。

まず褒められてる点。

1:日本社会は非常に秩序がある。
2:科学技術が発展している。
3:日本人は礼儀正しい。
4:日本人は頭が良い。
5:経済的に豊か。(店の親父は世界一位の経済力だと思っていた)

次に決して褒めてはいない点。

1:目が細い
2:ち○こ小さい
3:女は胸が小さい
4:働き過ぎで全く遊ばない
5:国の面積が小さい
6:家が小さい
7:自然災害が多い
8:犬を食う
9:サソリを食う
10:ジャッキーチェンすごい

ここに書かれていることは、褒められてる点も、決して褒めてない点も全て、あの場末の飲み屋だけに留まらず、行く先々で繰り返し何度も聞かされました。
まるで日本人に会った時にはそう言うように教育でもされてるかのように。
そして上に書いたこと以外によく言われたのには、日本人は信用できる、というのがあります。
これは本当によく言われました。
一番よく言われたかもしれません。
それに、目が細いっていうのと(これは左右の手で目を横に引っ張り、極限まで目を細く見せる仕草とともに言われるのが通常のパターンです)、犬を食う、というのを合わせて、よく言われることTOP3と言えそうです。
この一番言われたかもしれない、日本人は信用できる、という日本人観は、言うまでもなく一朝一夕で作られたものではありません。
日系移民の方々、特に一世や二世の方々がブラジル人社会に強烈に印象付け、守り続けてきたものでしょう。
日系移民がこの国に存在せず、日本人がブラジル人にとって、単に遠く離れた国の人達に過ぎなかったのなら、信用できる、という印象は決してブラジル人の中に浸透していなかったと思います。
信用とは人と人との密な関係の中で、ある程度の時間をかけて醸成されていくことでしか作られないものでしょうから。
他の日本人観に関しては、どこかで聞き齧ったり、映画やテレビやネットで見たりした程度でも、広まっていけるものばかりではないかと思います。


と、こうして見てくると、ブラジル人が持つ、なかなか複雑な日本観というのが浮かび上がってくるんではないでしょうか。
一口に尊敬されてるとも、バカにされてるとも言えません。
両方あるんですね。

ブラジル人は日本の文化に対して、ほとんど仰ぎ見るように、尊敬してる部分があります。
それは、日本人は信用できる、秩序がある、礼儀正しい、という評価に現れています。
こうして日本を褒める時のブラジル人には、一方でブラジルときたら、もうめちゃくちゃだよ…という自嘲的な態度が見られることもしばしばでした。
そこにあるのは、ブラジルは到底日本のようにはなれない、という諦めにも似た感覚のようでした。
しかしそうして日本を褒めた人が、次の瞬間には日本をバカにするような感情を覗かせたりする。
それは多くの場合、日本と中国、韓国の区別についての会話の中で明らかになります。
彼らは大概、これらの国の区別に無頓着で、3カ国全てで同じ言葉を使い、一人っ子政策があり、言論の自由は無く、犬を食うと思っていたりする。
そんなことはない、文化も政治形態もそれぞれ違うんだよ、と僕が言うと、そんなことはない、同じだろ? っと返事が返ってくる。
とは言え、そう言う彼も分かっているはずなんです。
試しに、寿司はどこの国の食べ物だい?と聞いてみます。すると迷わず、
日本だ!
という返事が返ってきます。
寿司は中国や韓国の食文化であるというイメージにはなっていない。
日本のオリジナルの食文化であるという認識がしっかりあります。
そして、信用できる、秩序がある、礼儀正しい、という日本人に対する印象を、中国人や韓国人にも持ってるのか?と聞くと、そういう印象は持っていない、という返事が返ってくる。
となれば、彼の中で日本人と中国人と韓国人は食文化も国民性も違うものとして認識されているということになります。
少なくとも、日本の特性と思われているものが、中国や韓国のものとしても認識されているわけではない。
しかし、逆はあるのです。
つまり、中国や韓国の文化を日本も共有してることになってる。
一人っ子政策は中国の政策だよ、とか、日本人は犬を食べないよ、と伝えた時に、若干残念そうな顔をして、中国も韓国も日本も一緒だろ?っと言い返す彼らの表情からはアジア人の区別なんてどうでもいいんだという、侮蔑の感情も読み取れるのです。
ここに、僕は不思議な矛盾を感じてしまいます。
日本人を尊敬すると言っていながら、日本人と中国人と韓国人の区別なんかどうでもいいとも言う。
日本人を含めた東アジア人全てを見下したような態度をとる。
この矛盾して見える心理は、僕が接したブラジル人の多くに共通してあるもののようでした。
僕は今回のブラジル滞在の中で、このことをどう解釈したらいいのか分からず、戸惑いを抱き続けていたように思います。
しかし旅も終盤に差し掛かった今は、何となく、僕なりにですが、彼らの心持ちが分かるような気がしてきました。

まず、彼らは基本的には東アジア人の、恐らくはモンゴロイドの身体的特徴を見下している部分があるのだと思います。
そして、遠い場所にあり、長い歴史を持ち、独特な文化を育んだ東アジア全般にミステリアスなイメージがあります。
そこには何かしら惹かれるものがある一方で、心理的距離も感じています。
あくまで、東アジアは異質な文化圏であり、親近感は抱きづらいのです。
東アジアに幾つかの国があることは知っていても、その違いまでは知らない。
非常に漠然とした、オリエンタルなイメージで一括に捉えているわけです。
しかし、そんな東アジアの国の中で、唯一日本には具体的なイメージを持ちやすかった。
東アジアで唯一、日本からは大量の移民が渡ってきたからです。
日系移民に接したブラジル人は、日本人の特徴を具体的なイメージを伴って理解し、それが伝聞としてブラジル社会に浸透していきました。
そしてその特徴の中には、ブラジル人が尊敬したがるものも多く含まれていたのです。
しかし、日系移民も今や3世4世の世代が多くなり、彼らは生まれも育ちもブラジルで、つまりブラジル人です。
日本文化の特徴は当然失ってきている。
そしてその人口もブラジルの総人口の1パーセントを占めるに過ぎない。
となると、東アジアのなかで唯一具体的なイメージがある日本人にしても、現在身近に感じられる存在ではありません。
一度、東アジアのヴェールの向こうから顔を出し、強烈な印象を残した日本人は、再びヴェールの向こうの東アジアに去ってしまったのです。
そう、あのミステリアスで、惹かれる部分がありながら、異質であり、親近感が湧かず、肉体的にはちょっとバカにしたくなってしまう人々の文化圏、東アジアです。
ブラジル人はそんな、心理的距離のある東アジアの情報を雑に扱ってしまう傾向があるように見えます。(いや、実は他の地域に対してもそういうところがあるのですが、ここでは言及しません。)
そこには日本人も当然含まれているのです。
こういったところに、僕が出会ったブラジル人の多くが、日本に対して尊敬と侮蔑という、両極端な感情を同居させていた理由があるのではないかと思います。
更に、この20年くらいは中国人と韓国人の移住者が増えてきたようです。
その中で、特に中国人のイメージがあまり良くないようなんですね。
ブラジル人の中でも、東アジアの情報を雑に扱ってしまう傾向を強く持つ人々の間では、既にその中国人の良くないイメージが日本人のイメージの中にも流入してきているようです。

さて、ここまでブラジルにおける日本人の印象を書いてきましたが、出来れば、日本人や東アジア人が侮蔑されてるようなことなどは書きたくはありませんでした。
しかし今回の滞在では、かなり露骨に侮蔑されることが頻繁にあり、これは困ったな事態だな…と思ったんです。
もし、僕が日本人ではなく中国人だったなら、この侮蔑は更にひどいものになったんではないかと予想します。
僕が体験したリアルなブラジルを伝えるという意味においては、その侮蔑された部分も避けては通れないなと思い、隠さずに書きました。
ただ、今回の記事だけでは、いや~な印象をブラジルに持ってしまう方もいるかもしれませんので、そこは今後、ブラジルってそういう部分だけじゃないんだよ、ということでバランスとっていきたいと思います。
もちろん侮蔑の言葉なんて一言も吐かない、ただただ親切なブラジル人もいますからね。

そして、前回も書いた通り、これはあくまで、僕が体験し、感じ、考えたことに過ぎません。
他の旅行者や滞在者の中には、全く違う体験をされた方もいるかもしれません。
まだ日系人が多く住む地域には行ってませんから、そういう地域ではまた事情はかなり違うのでしょう。
そして文中、ブラジル人、と一口に言ってますけど、ブラジル人を一括にするのは、非常に難しいことではあります。
ただ、幾つかの地域を訪れた結果、ブラジル人の日本人に対する印象がほとんど同じに思えたこと、更にブラジルに数年住んでいる僕の友人も、僕と同じような感想を持っていたことから、そんなに偏った見方にはなっていないんじゃないかと思っています。
そういったことを踏まえた上で、以上の記事を理解して下さればと思います。
ではでは。


 

ブラジルにて ② ~日本人の印象①~

ブラジルにいます。
今回はブラジル人の日本人に対する印象について書いていきます。

ブラジルには日系人がたくさん住んでいることは、知ってる方も多いと思います。
ですから、ブラジル人もある程度、日本の文化について知識を持っているんだろうな、ぐらいのことは想像しますよね。
まあ、僕はそう思ってました。
しかし、その知識がどういったものなのか、どの程度浸透しているものなのか、そこに関しては見当もつきませんでした。

で、実際来てみると、なるほどこんな感じなんだと、けっこうインパクトがあったので、報告します。

まず、ブラジル国内には日系人が特に多く住んでいる地域というのがあります。 
代表的なのはサンパウロ州パラナ州です。
僕はそういったところをまだ旅していません。
人種別人口構成で日系人の比率が非常に低いところばかりを旅していますので、あくまでそういったところでの感想になります。

とある田舎街に滞在してた時の話です。
そこは豊かな自然に囲まれた風光明媚な場所で、
イタリア系移民の子孫が多く、日系人は住んでいません。日系人だけではなく、アジア系の人間もいません。
夜、一人で飲み屋に行きました。
場末感たっぷりの飲み屋です。
薄暗い店内を親父が一人で切り盛りし、古くて映りの悪くなった東芝のブラウン管テレビがサッカーの試合を流しています。

客はおっさんがほとんどですが、若者も少しいます。全員地元の連中で間違いないでしょう。

そこに僕が入って行ったわけです。

なんだ、こいつ?

まだ何も聞かれてませんが、そんな視線をひしひしと感じます。

これはこれは、アジア人とは珍しい。

そう思ってるんでしょう。
アジア人が飲みに来ること自体、初めてかもしれません。

最初に口火を切ったのは店の親父です。

お前、中国人か?日本人か?

日本人だよ、と答えると親父は急にテンションが上がり、日本てあーだよな、こーだよなと、その素朴な日本観を語ってくれました。
それを以下に箇条書きにしてみます。

1:日本社会は非常に秩序がある。
2:科学技術が発展している。
3:日本人は礼儀正しい。
4:日本人は頭が良い。
5:経済力が世界一位。

5は明らかに間違っていますし、4もどうだろ?って感じですよね。これは多分日本人は勤勉だ、というイメージが先にあって、だから頭が良い、となっているんでしょう。
他のはまあ、当たってると言えば当たってるのかなって感じですかね。
外国人が思う日本のイメージの典型と言ってもいいかもしれません。
初対面の日本人旅行者に披露するには、当たり障りのない日本人観とも言えそうです。
まあ、親父は店の主人ですからね。
客商売。気も使えます。

ですが、客となるとまた話は違うでしょう。
僕が生粋の日本人だと分かると、この珍客をもてなすべく、老いも若きも興味の色を全面に出しながら近づいてきました。
そして彼らなりのやり方で僕との友情を育もうとしてくれたわけですが、その際、やはり話のつかみは、日本てあーだよな、こーだよなということになります。
そこで示された、彼らの忌憚のない日本観を抜粋し、以下に箇条書きにしますのでご覧ください。

1:目が細い
2:ち○こ小さい
3:女は胸が小さい
4:働き過ぎで全く遊ばない
5:国の面積が小さい
6:家が小さい
7:自然災害が多い
8:犬を食う
9:サソリを食う
10:ジャッキーチェンすごい
以上です。

いかがでしょうか。

ちなみにこれ、けっこうバカにした感じで言ってきてます。
僕はもちろんむかつきました。
初対面ですからね。
一番ノリノリで言ってくるおっさんを本気で殴ろうと思いました。
が、しかし、それぞれの人間の顔を見ていると、ここで怒ったところで意味が無いような気になってきました。
どうもこれくらいの失礼さは許容範囲だと皆が思ってるようだったんです。
こりゃ、だいぶ感覚が違うのかもな…。
なんというか、ここまで感覚が違うとまともに怒る気にもならんです。

しかしねぇ、1、2、3あたりは身体のことですからね、そんなこと言っちゃいかんだろと思いましたし、8、9、10なんて何なんだ?って感じですよね。

犬は… 韓国とか中国のことと勘違いしてるんだろうなぁ。サソリも、多分中国では食べてたりするんでしょう。 ここで、仕方なしに日本ではそういう食材を食べる習慣はないことを説明しました。
韓国や中国にしたってみんなが食べてるわけじゃないよとも言いました。
それでもなかなか信じないんですよね。
後日分かったんですが、ユーチューブに、中国人だと思われる女性がサソリの串焼きを食べている動画があがってまして、ブラジル人はそれ見て大興奮してるんですよ。
中国人ヤベー!ってなってる。
で、中国人、韓国人、日本人はみんな一緒だと思ってる人が多いですから、当然日本人もサソリ食ってることにされてます。
僕的にはサソリだろうが犬だろうが、他国の食文化を卑下するのは、まず止めたほうがいいと思ってるので、日本人はサソリも犬も食べないよ、中国人とか韓国人は食べるからやばいよね!なんて話には間違っても持っていきたくないですし、そもそも他国の食文化を自国の価値観を基準にして一方的にバカにすることがいかに良くないことなのか、というのを、こんこんと1時間は説明してやりたかったんですが、そこまで説明できるポルトガル能力もないので、なかなか歯がゆい思いをしました。
あと、ジャッキーチェンは日本人ではないですね、
これはしっかりと伝わったようです。

自然災害のこと。
これは冗談みたいに言ったらいかんと思いますよね。
ここは露骨に笑ってくるんであれば、本気で怒らねばならないところだと思ったんですけど、幸い、そこまで心無いことは言われなかったので、怒らなくてすみました。

家が小さいってどれくらい小さいと思ってんのかなあと聞くと、もう一般的日本人の家は8畳くらいしかないことになってる。
アパートじゃなくて、一戸建てで。
すげー狭いところに肩寄せ合って生きてて、大変だよなぁと同情されました。
そんなことはないと、一般的な一戸建てはもっと広いし、2階建ての家も多いから、君達が思ってるよりもだいぶ広いよ、と説明してもなかなか納得しません。 
先入観というのは手強い相手です。
そもそもブラジルの家、平均的な大きさは日本のそれと比べてそんなに大きいとは思いません。
庭の面積を含めず、家そのものだけで比べたら日本と変わらないんじゃないの?いや、下手したら日本の方が大きいんじゃない?と思ったりもします。
庭だってみんなが持ってるわけじゃありませんしね。
しかし、この家が小さいというイメージは国土が狭いというイメージとセットになってるものなんですね。
とにかく日本の国土は狭くて、それなのに人口は多い。その結果、人々は小さい家しか持てず、窮屈に暮らしている、という理屈なわけです。
確かに国土に比して人口は多いのかもしれないなぁと思いつつ、だからと言ってそんなに小さい家しか持てないわけじゃないんだということは説明させていただきました。


※次回に続きます

ブラジルにて

今ブラジルに来てるんですよ。
もう来てから半年くらい経ちますけどね。
うろちょろ旅してるんです。
ブラジルに来るのは2回目。

日本の皆さんはブラジルに対してどんなイメージありますかね?
カーニバル。サッカー。人々陽気。治安悪い。
そんなところでしょうか。

ブラジルは地球の裏側。
距離的には最も遠い国の一つですから、普段意識することはないでしょうし、あまりよく知りませんよね。
僕も実際に訪れているとは言え、ただの旅行者ですからよくは知りません。
大きな国ですし、何年も住んだり、全域を巡ったりしないと、文化の深いところや全体像はなかなか掴めないでしょう。
ですから信用度の高いことはなかなか言えないんですが、せっかく旅してるので、僕なりにこの国に対する印象を綴っていきたいと思います。

例えば、先程のイメージで言うと…
サッカー。
これね、実はみんながサッカー好きなわけじゃない。
そんなの言われなくても分かるわって声が聞こえてきそうですが、構わず続けます。
サッカーに興味ない人けっこういます。
熱狂的なサッカーファンが思ったより少ないなって印象ですね。
まあ、地域によってだいぶ違いはありそうですけど。少なくとも全ての地域でサッカーに対して熱があるわけではなくて、あんま興味ない人間が多い街も沢山あるんだなって思いました。

あとね、サッカーそこそこ好きな人と話しますよね。
それで、話のつかみで、“ブラジルの選手知ってるぜ、ネイマールすげ〜よな!”と言っても、あまり喜ばれない確率が高い。
ブラジル代表の10番だし、バルセロナで活躍しているし、国民的英雄なんでしょ?、老若男女から愛されてるんでしょ?って思ってたんだけど、どうもそんな感じじゃないんです。
なんか、素行が悪いのか、生意気だと思われてるのか分からないけど、ネイマール好きってヤツに会ったことがない。
いや、もちろんネイマールファンがいないはずはないし、僕が会ったこと無いだけなんだとは思うけど、これだけ出くわさないってことは、その絶対数が知名度の割にだいぶ少ないのかなぁと思いましたね。
ちなみに、ジーコとかペレの名前出すと、ウケが良かったです。これは若い人と話しててもね、そうなんです。やっぱあれだけ大御所になると、悪く言う人はいないですし、みんなから愛されてるなぁって感じました。
そういう意味で言うとネイマール、まだまだ若くて、国民みんなから認められるようになるには早すぎるってことなのかもしれないですね。

そしてカーニバル。
これ、僕が滞在してた街でもやってましたけど、(カーニバルをやっているのはリオデジャネイロだけではない)僕が仲良くなった家族は見に行ってませんでした。
なんで?って聞くと、あんま興味無いし、人がいっぱいいるから嫌だと。三人姉妹で三人とも嫌いだと。
え!?って思いました。そんなブラジル人もいるの?って。
でも他にも、同じような理由でカーニバル行かない若者に何人か会いました。
とすると、これも考えてみれば当たり前なわけですが、ブラジル人とはいえ、みんながみんな、ノリノリでサンバに合わせて踊ったり、それを見て盛り上がったりしないってことなんですね。
中にはそういうノリが苦手な人もけっこういるんです。
もちろんカーニバル大好きな人が沢山いるのは間違いないですけど。

で、人々が陽気の件。
これは大体イメージ通りでしたね。
陰気な人や、堅物みたいな人も、いないわけじゃないけど、すごく少ないと思います。
一般的に、日本人と比べると誰とでも気軽に挨拶するし、初対面でも物怖じしない印象です。
全然知らないおじさんと道端ですれ違っても、目が合ったらにこやかに挨拶されたりします。
これはよくあることです。
所得格差が激しく、月収で1万円とか2万円くらいで生活してる人が沢山いる中で、
物価は日本とあまり変わらないくらいですから、金銭的苦労を感じている人はかなりいると思うんですが、社会の雰囲気からはそんなに悲壮感を感じないです。
ゴミ箱とか道に落ちてる空き缶集めて、それをリサイクル業者に売って生計立ててる家族とか時々見かけるんですが、多分、収入はかなり低いと思うんですよね。
この国でも収入が最も低い部類に入ると予想します。
それでも、家族で陽気に喋りながら、和気あいあい、楽しそうに缶集めてます。
家族が幸せの源なんですね。
うん、家族愛は非常に強いと思います。
家族、親戚といった血縁関係の繋がりが強くて、何かっていうと週末に集まって一緒に飯食ってます。
子供もパパママ大好きで、思春期でも親と距離取ったりしないんじゃないですかね。なんだか反抗期無さそうです。

治安はね~、悪いでしょうね。
田舎の村のお祭りに行った時の話ですけど、そこで発砲事件があって、撃たれた方は亡くなってしまいました。
原因は恋のもつれ。
若い男同士で一人の女を巡って揉めたあげく、恋に破れた方が腹いせに撃ってしまったようです。
都会の危険なエリアでは銃犯罪が多発してるってのは知ってましたけど、のどかな田舎であっても、銃犯罪は日本では考えられないくらい身近にあるようです。それだけ銃が手に入りやすいってことだと思います。 
今滞在している街はそんなに大きな街ではなく、比較的治安が良いと言われてるみたいですが、既に今年に入ってから銃犯罪による死者が20人程出たと聞きました。 
銀行強盗も起きてます。その様子は防犯カメラに捉えられ、ニュース番組で放送されたのを僕も見ました。
閉店後の銀行に覆面をした男数人が侵入。
各ATMを爆破し、中の金を奪っていくという、大胆かつ、あっと言う間の犯行でした。
結局、後日全員捕まったようですが。

更に、どうも全国的に警官の待遇が悪いらしく、時々ストライキが起こります。
これだけ治安が悪い中での警官のストライキですから、結果は火を見るよりかも明らかですね。
犯罪が多発します。 
ストライキが行われるとなると、あらかじめ危険を察知して、ほとんどの店は営業しないのですが、その閉められたシャッターをこじ開け、中の商品を略奪していく人がたくさんいます。
略奪だけではなく、銃犯罪も当然のように増えます。
今年の1月くらいにエスピリトサント州の州都で起きたストライキの際には、10日間程で100人以上の殺人事件が起きました。 

こんな感じで、比較的治安の良いと言われている街でさえ、日本に比べるとはるかに暴力犯罪が身近にあるわけなんですが、それでも普段街中(スラムなど、非常に危険なエリアを除いて)を歩いていて、殺伐とした空気を感じることはほとんどありません。なんとなく、暴力沙汰に巻き込まれる可能性をあまり感じないのです。
むしろ、日本の繁華街のほうがその可能性を感じる機会が多い気がします。
それはどうしてかと言うと、僕がバカだから… ではなく、まあそれもあるかもしれませんが、基本的にブラジル人の方が日本人よりおおらかな感じがするからだと思います。
例えば日本だと、下手したら肩が当たったくらいで舌打ちされたり、因縁つけられたりしますよね?(僕だけじゃないですよね?)つまり、日本はちょっとのことでイライラする人が多い。気がする…。
ブラジルではさすがに肩が当たったくらいで文句言われたりすることは想像しにくいです。
ですから、繁華街を歩いていて、異様に怒りの沸点が低い人に出くわし、不本意ながらその人の怒りスイッチを押してしまう、なんて可能性は日本の方がはるかに高いと感じます。
ただ、繰り返すようですが、何らかの犯罪に巻き込まれる可能性で言ったら、実際ははるかにブラジルの方が高いですよ。
そこは間違いないです。
しかもそれは死に直結しそうな犯罪です。
でもそこだけ知って、街中の雰囲気を想像すると、ちょっと現実と違うのかなぁと思ったんで、日本を引き合いに出してみました。
ある意味ブラジルの怖いところは、普段、街が見せる陽気でのどかな顔とは非常にギャップのある重大な事件が、いとも簡単に起こってしまうところなんだと思います。
予備知識無く、普通にブラジルの地方の街なんか歩いていたら、ほがらかな人ばかりで、こんなところで犯罪なんか起きようもないと感じるでしょう。
ところが、そんなところでも日本では考えられないような頻度で、殺しただの、殺されただのが行われている可能性があるわけです。

なんて怖いことばっかり言ってますが、僕は今のところ怖い目にあったことはありません。
ブラジル人の人懐っこい優しさにすごく助けられています。
次回は、ブラジルにおける日本人の印象を書いていこうと思います。

幼少期の記憶 〜定住型と放浪型〜

僕は幼い頃、3.4歳の頃だったと思いますが、東京湾を望む丘の上の団地に住んでいました。
そこから一番近い湾内には石油コンビナートが見え、 その向こうには大抵 いつも、いくつかの船が浮かんでいました。
船は気をつけて見ていなければ分からないほど、本当にゆっくり進んでいました。
子供ながらにあんな速度で、恐らくはとても遠いであろう目的地に果たして辿り着くのだろうかと心配でした。
しかし、そうは言ってもきっと辿り着くのだということは分かっていましたから、そ の事実と船の進み具合が自分の中でうまく結びつかなくて不思議な気分なのでした。

その頃、僕は日本や世界の地図が描かれた一冊の絵本を持っていました。
その絵本には地図と共に、様々な国の人々の暮らしの様子が、鮮やかな色使いで描かれていました。
僕 はその絵本が大のお気に入りで何度も読み返していました。なので、そこに描かれた程度の地理については理解していたと思います。
自分が眺めているのは東京 湾で、あの船の行く方向には太平洋があるということも、太平洋をずっと南下していくとオーストラリアがあるということも知っていました。
丘の上からボーっ と船を眺めながら、あの船はどこに向かうんだろうと想像をふくらませているとわくわくしました。
当時の僕には東京湾でさえ広大に思えましたから、その姿さえ見えないオーストラリアやアメリカ、アフリカまでの距離を思うと、その間に横たわる海の想像を超えた広大さに圧倒され、またそれがなんだか嬉しくもありました。
そしていつか海の向こうの土地を見てみたいなぁと思っていました。

そ んな海の向こう、あるいは地平の先、未知のものへの好奇心というのは、僕の中で自然に湧き上がってくるあまりにも当たり前な衝動だったので、これは他の皆 もそうなんだろうと思っていたのですが、どうもそうでもないらしいということには、成長するにつれて徐々に気づいていくことになりました。
当時の僕の記憶の中で、そのことを象徴するようなある出来事があります。
同 い年くらいの数人の子等と、道路に石かなんかで絵を描いて遊んでいたのですが、僕はそのうちの一人の女の子に一生懸命日本列島を描いて見せ、今僕らが住ん でいるのがここら辺で、これが東京湾でこの先が太平洋で、北があっちで南があっちでなんて興奮しながら説明していました。
それで僕が列島の絵に視線を落と し、ますます熱を込めて話をしている最中に、ふと顔を上げると女の子はいなくなっていて、別のグループの所に行ってしまっていたのでした。
この時の僕は “なんでこんなに面白いのに聞いてくれないんだよ!”なんて思ってましたが、後から考えれば無理もないですね。
僕はその子が興味ないことを夢中で話してい たわけです。
人の好みは色々だと知るいい機会でもありました。まあ、この時の女の子にしたって、大人になってから海外をばんばん旅してたりするかもしれませ んし、単純に僕の話がつまらなかったという可能性もありますが、この時分にしては僕が他の子よりは地理だとか、未知の世界だとかに対する好奇心が強かった んではないかという ことを示唆する、一つの印象的な場面として僕の記憶の中には残っています。
女の子だけじゃなくて男の子にしても、皆同じように東京湾を見渡す場所に住んでいたのに、あまり海のほうに興味を持っていなかったんじゃないかなあと思います。

も う一つ、この頃の記憶で印象深いのが家族で車に乗り、おそらくは東京の高速道路を走っている時のものです。
高速の壁が途切れているところから、立ち並ぶビ ル群が見えました。
その威容にすごいな!と興奮するのと同時に、無機質なその姿と、その存在の目的の窺い知れなさに、とっつきにくいものを感じました。
ど うもあのビルの中に人がいて活動していることは想像しにくかったですし、何より温もりを感じなかったのです。
どこまでも続くビル群に、それを造り上げた人 間の底知れぬ力を感じ、単純にその力強さには感動を覚え、その先にある未来に何かすごいものが待っているのかもしれないなと思う一方で、良いか悪いかで 言ったら決して良くはないものもその景色に感じていました。
もちろんそのことを深く考えてみることはしなかったのですが、漠然と大都会に対するイメージが 形作られた時だったと思います。
僕が住んでいたのは神奈川県の東京湾沿いで、団地や一軒家 が立ち並ぶ普通の住宅街でしたが、ところどころに開発されていない林や、草の生い茂る空き地が残されており、そういった場所で遊ぶのが僕はとても好きでした。
まあ、一言で言えば自然が好きだったのですね。範囲は狭いながらも街中に点在する自然に親しみを感じていました。
で、 その頃に、大人になったらあの大都会に出て、あのビル群の中で働くことになると、それが普通であると知ったのです。普通に生きてればそうなるんだと、何の きっかけでか分かりませんけどそう思ったんですね。
それは嫌だなぁと思いました。
あの中でずーっと過ごすということが何とも夢のないことに思えましたし、 自分には合わないなと感じました。 
そして更にビックリし、嫌だなと思ったのが、将来家を買 い、そこに定住し、一生をそこで暮らすことでした。
周りを見れば皆そうしているわけですから、そんなのはうすうす分かっていたのではないかとも思うのです が、当時の僕はどういうわけだか自分もそうしていくんだということにビックリしましたし、激しい抵抗感がありました。
一生同じ場所ですごす?あり得ない なぁ、という感じでした。
つくづく変わっていますよね。
この頃から普通に社会で生きていく素養に欠けていたようです。
しかしこれは僕の中にある自然な傾向でしたから、できる限り叶えてあげなくてはなりませんでした。
僕の傾向ははっきりしていました。
未知の世界に憧れがあり、自然が好きで、一ヶ所に留まりたくはない。
そんな渇望を満たすのにぴったりなもの、それは間違いなく旅でした。
いつか旅に出てやろう、世界を見て周ろう、そんな夢、いや決心とも言うべきものを、この頃にはしていたように思います。

さて、大人になった自分は実際に海外を旅するようになったのですが、自分の旅志向と言うか、その傾向がいつ頃からあったのかなと思い返すと、この3.4歳の頃の記憶にたどり着くんですね。
それで、自分のルーツを確認するような気持ちで懐かしさを感じながら、ここまで書いてみました。

で、前から思ってたことがあるんですけど、
それは、人には定住型と放浪型があるんではないか、ということなんです。
だっ て大半の人は、幼い頃から将来海外を旅しまくってやろうなんてそんなに強くは思わないでしょうし、大人になったら働いて家を買って定住することが当たり前で、そういう将来に対し てなんの不満もなかった人間と、僕のようにふらふらと遠くに行ってみたくてしょうがなくて、一ヶ所に居続けることに抵抗を覚えていた人間とではぜんぜん感覚が違い ますもんね。
僕はこの違いは、ほとんど生まれ持った傾向のようなものとしてあるんじゃないかと思うのです。
だから、日本は定住社会ですけど、一定数、定住に馴染まない傾向を持った人達がいるはずだと思っています。
僕は勝手に、定住に馴染みにくい僕のようなタイプを放浪型と言ってるんですけど、この放浪型には大人になるまであまり会ったことはありませんでした。
ところが旅に行き出すようになると、行く先々でそういう人間に会うことになります。
相対的に数は少ないとは思いますが、確かにいるんですね。これは嬉しかったです。
ちなみに30代も半ばになった今は定住も悪くないなというか、むしろしたいと思ってますね。
ふらふらあちこち行くのもいいけど、一ヶ所に腰を落ち着けることの良さもやっと分かってきました、はい。現実が分かってきたとも言いますね。
金どころか定職もなくて家を買うことなんて夢のまた夢ですが、できるものなら買ってみたいなマイホーム。
大人になったらこんな風に思うようになるなんて想像もしなかったけど、なるんですね。ビックリです。
ではでは。